INTERPRETATION

第311回 将来の支えとなるもの

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

最近はさわやかなお天気が続いていますね。空梅雨のような気もしますが、その分、

関東地方は連日カラッとした気候で、実に気持ちの良い日々です。このようなお天気はロンドン時代を私に思い起こさせます。

私がロンドンのBBCに勤め始めたのは1998年6月のことでした。ちょうど今ぐらいの時期です。確かヒースロー空港に着いたのが金曜日。月曜日から仕事が始まりますので、土日でアパートを探さねばならず、週末はひたすら不動産屋さんめぐりをしました。

一緒にロンドン入りした同期スタッフはすんなり決まったようでしたが、私はなぜか難航。希望条件が多すぎたのが理由です。

それでも何とか日曜日の夜には短期滞在型のホテルに身を寄せることができたのは幸いでした。そのホテルのオーナーが所有するフラットに数週間後であれば入居できるというのが決め手でした。

晴れてそのフラットに引っ越せたときは本当に嬉しかったですね。大学院時代に暮らした寮から近かったため、土地勘もある場所だったからです。家賃はかなり高額だったのですが、結婚のあてもなく、物欲もなかったため、良しとしました。美術館やコンサートなどへのアクセスも良く、仕事がシフト制だったこともあり、地の利を生かして本当に色々なことを見聞できました。そうしたことが今では私の財産となっています。

中でも懐かしく思い出すのが、フラットの近くにあったRIBAです。RIBAはRoyal Institute of British Architects(王立英国建築家協会)の略で、ロンドン市内に大きな本部を有しています。設立は19世紀初めという、歴史ある団体です。

外観はシンプルな白い建物なのですが、中に入るとひっそりとしており、おごそかな空気が流れます。私はその一角にあるカフェがお気に入りでした。朝8時から夕方5時までやっており、温かい食事に豊富な飲み物、たくさんのスイーツなど、メニューを見るだけで迷うほどでした。放送通訳の仕事を終えて最寄駅で地下鉄を折り、北上するとRIBAにたどり着きます。仕事帰りにときどき立ち寄るのが私にとってのひそかな楽しみとなりました。

あと数分歩けば家に帰れるのはわかっていても、どこか第三の場所でホッと一息つくのも大切なことなのでしょうね。RIBA Cafeでは大好きなスコーンと紅茶を頂きながら、館内で集めた無料パンフレットを眺めたり、日本の両親や友人に手紙を書いたりするのが私にとって幸せなひとときでした。

あのような雰囲気の場所にその後、私の人生の中で巡り合えたことはないのですが、当時の素晴らしい思い出はかけがえのないものとなっています。

言い換えると、「今という瞬間をいつくしむこと」が、いずれ将来自分を支えてくれる記憶になるのですよね。

だからこそ、これからも丁寧に生きていきたいと思います。

(2017年6月19日)

【今週の一冊】

「世界の美しい名建築の図鑑」 パトリック・ディロン他著、エクスナレッジ、2017年

関節の調子が今一つなことを幸いに(?)、ウォーキングではなく楽チン自転車乗りを最近は楽しんでいます。6月に入ると日の出もますます早くなり、自然に目が覚めます。朝30分ほど近所のあちこちを回るようになりました。休日は1時間近く乗り続けることもあります。行動半径を広げられるのが自転車のだいご味なのですよね。

このところの私のテーマは「美しい建物」。豪邸街の古き家並みを味わったり、珍しいデザインのビルを探したりという具合に、毎朝新たな建物を発見してはワクワクしています。

今回ご紹介するのは、世界の建築物を図解説明した一冊です。写真ではなく、あえて絵で描かれていることに温かみを感じます。ピラミッドから教会、劇場や個人の家に至るまで、本書に取り上げられている建物もさまざま。断面図によって細かい部分まで描かれており、まるでその建物の内部に入ったかのような感覚を味わえます。

中でも惹かれたのはイギリスの水晶宮Crystal Palaceです。もともと万国博覧会の展示場として1851年に建てられたものです。従来の建築方法ではなく、枠組みの中をすべてガラスで埋め尽くすという斬新な方法が注目を集めました。しかも当時のイギリスは産業革命を経て大量生産が可能になった時代。使われたガラス板は30万枚に及んだそうです。博覧会後はロンドン南部に移築されたのですが、あいにく1936年に火災で焼け落ちてしまいました。ロンドンの消防署の半分にあたる消防車89台と消防員400人が出動したものの、消火はできなかったのだそうです。

先日ロンドンでは高層マンションの火災がありました。家を失った大勢の人々のことを思うと言葉もありません。災害のもたらす怖さに人は謙虚になる必要があるのではないか。そのようなことを考えさせられます。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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