INTERPRETATION

第329回 価値観の違い

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事をしていると、様々な価値観や文化に触れる機会を得ます。日本は真冬なのに薄着でも平然としている海外からのビジネスパーソンもいれば、ノーメイクでもOKという方もおられました。来日前に日本のエチケットを予習してはいたものの、ついつい片手で名刺交換をなさっていた方もいらっしゃいましたね。こうした状況を見るたびに、世界にはたくさんの考え方や重きの置き方があり、「郷に入っては郷に従え」とは言え、細かいことに目くじらを立てるより色々と受け入れる方が良いなあと感じます。

今まで多くの方と接してきましたが、中でも強烈だったエピソードがあります。それは海外の方の商談通訳で、関西へ新幹線で向かっていた時のことでした。

季節は梅雨。東海道新幹線が新横浜を過ぎて静岡県に入ったころでした。あたりは田んぼが広がり、青々とした光景が富士山と共に見えてきたのです。

来日していたのは司法関係の方でした。一面の田んぼを見るや、「サナエ、あの田んぼの周りになぜ柵は無いのか?」と尋ねてきたのです。

「田んぼの周辺にフェンス」という発想自体、私にとって初めてのことでしたので、一瞬答えに戸惑いました。するとその方は続けて「子どもは数十センチの水深でもおぼれて死んでしまう。裁判になったらどうするのか?」とおっしゃったのです。なるほど、訴訟が多い国ならではの考え方だったのですね。

とは言え、私は内心考え込んでしまいました。少なくとも私がそれまで生きてきた間、「田んぼにおぼれて幼児死亡」などという新聞記事を見たことがなかったからです。そこで私は苦し紛れに「日本では赤ちゃんの頃から田んぼが身近にある。親もよくよく言い聞かせている」と答えるのがやっとでした。

その方は私の答えに今一つ納得できないような様子でしたが、少なくとも日本では田んぼの周りに柵は設置しないこと、親子にとってもその状態が当たり前であるという点は理解なさったようです。

こうした異文化間の違いは色々な場面で見られます。たとえば私の場合、小学校時代を英国で過ごしましたが、鼻をすすっただけで友達から「気持ち悪いからちゃんとかんで」とたしなめられたことがありました。その一方、正式な場面で女子全員が胡坐をかくという行為は日本で考えられませんでしたので、面食らったこともあります。ロンドンの大学院時代には、階段教室が満席で階段の部分に直にドカッと座る学生を見て驚いたこともありました。かと思うと、授業中に居眠りをする学生は一人もいませんでしたので、日本との違いを大いに感じました。

このような体験から、「価値観」というのは文化によるものであり、ひいては一人一人の人生哲学によっても異なるのだと思うようになりました。日本にいると、ついつい「同調圧力」を感じてしまい、「自分がこういう言動をとると迷惑なのではないか」「こんな恰好をしたら恥ずかしいのでは」と思い、基準が「自分」ではなく、「他者から見た自分」になってしまいます。もちろん、調和を重んじる上ではそれも大切でしょう。けれどもそうした他者からの目「だけ」に縛られてしまうと自分が窮屈になってしまいます。

価値観の違いを受け入れつつも、自分の思いは大切にして、自分の行動には自分自身が責任を持つこと。

そうした「静かな強さ」も必要だと感じています。

(2017年11月6日)

【今週の一冊】

「倫敦から来た近代スポーツの伝道師 お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍」 高橋孝蔵著、小学館101新書、2012年

数週間前、東京国際フォーラムで大正時代のスポーツに関する映画を観ました。記録映画で音声はなく、専門の先生の解説と共にピアノ伴奏が即興で付くというイベントでした。古い映画を観てみると、当時の生活様式、とりわけ今とは大幅に異なるスポーツウェアが興味深かったですね。

その映画がきっかけとなり、日本の近代スポーツの歴史に関心を抱くようになりました。そこでご紹介するのが本書です。F.W.ストレンジはイギリス出身。開国直後の日本にお雇い外国人として来日しました。テニスやボート、サッカーなど、今でこそ普及しているスポーツも、かつての日本では知られていませんでした。そうした競技を伝えたのがストレンジです。

ストレンジが日本にやってきたのも、ある意味では偶然と言えます。当時、日本政府は外国に留学生を派遣していました。現在のロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに留学した日本人学生とストレンジが偶然出会ったことから、ストレンジは日本に興味を抱くようになりました

本書には日本におけるストレンジの活躍が生い立ちからその死に至るまで記されています。惜しくもストレンジは齢34歳の時に心臓発作で亡くなり、青山霊園に埋葬されています。

日本の近代化には数多くの外国人が貢献しました。その一人がストレンジです。2020年のオリンピックに向けて、日本のスポーツ史を知ることのできる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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