INTERPRETATION

第349回 覚悟と潔さ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者としてまだ駆け出しだったころ、恩師や先輩に言われたことがあります。それは「エージェントへの礼儀を守ること」でした。

フリーで活動する場合、私たちは人材派遣会社、すなわちエージェントに登録します。私もデビュー直後、複数の会社から運よくお仕事をいただけるようになりました。エージェント側は本人の実力に合った業務を厳選して依頼をしてきます。そして仕事のたびにエージェント側も難易度を上げていき、結果として私たち通訳者はエージェントにより育て上げていただくことになるのです。

デビュー初期の通訳者は、まだ右も左もわかりません。業界についてはおろか、臨機応変な対応についても初心者です。いきなり難しい分野の通訳をさせたり、要求の高いクライアントさんのところに放り込んだりしてしまえば、苦戦するのは現場の通訳者本人です。お客様が望む実力も発揮できず、結果として信頼問題に関わります。ですのでエージェントは慎重に仕事を割り振るのですね。私自身、振り返ってみるとエージェントからはお仕事の貴重なチャンスをいただき、新たな勉強分野を学ぶ機会を得て、さらにお給料もいただいて育てていただいたと感じます。今の自分があるのもエージェント抜きには考えられません。だからこそ、「エージェントへの礼儀」というのは非常に大切だと思います。

ところで通訳現場へ出かける際、私たちはエージェントの名前入りの名刺を持参して行きます。名刺交換時は自分の個人名刺ではなく、あくまでもエージェント名刺を使います。たとえ自分が個人事業主でオフィスを構えていても、たとえ自分の業務用ウェブサイトを開設していても、エージェントから派遣された以上、自分は「エージェントの一員」なのですね。プライベートのメールアドレスをお伝えするのもNGです。

では、エージェントから出向いたにも関わらず、個人の連絡先が記された名刺を相手へ差し上げてしまえばどうなるでしょうか?おそらくお客様は「え?この通訳さんと直接取引ができるの?ならばエージェントへの手数料は省けるのだから、これからはダイレクトに依頼しよう」という思いになるでしょう。景気後退と言われて久しい昨今ですので、企業側も経費削減ができるのであればそれに越したことはないからです。

そのようにして直接そのお客様と取引するようになれば、確かにお客様側は手数料を節約できますし、通訳者も自分の言い値で通訳料を請求できます。お客様と通訳者双方にとってwin-winです。けれども、そのようなことをしてしまえばせっかくエージェントの営業スタッフが大変な思いをして開拓したお客様を通訳者が横取りすることになります。業務妨害とも言えるのです。ゆえに通訳業界では、エージェントを飛び越えて直接取引するのはルール違反です。「発覚しなければ大丈夫なのでは?」と思えど狭い業界です。いずれ知られるところとなり、通訳者の信頼も落ちてしまうでしょう。

これを書きながら思い出したことがあります。今から15年ほど前にお世話になっていた女性整体師さんです。彼女はとある商業施設内のチェーン店で働いていたのですが、ある日の施術後のこと、「今月末で退職することになりました。柴原さんには今まで本当によくしていただきありがとうございました」と小声で知らせてくださったのです。プライベートについては存じ上げていませんでしたので、「結婚退職?ご主人の転勤?留学?」などの思いが去来しました。尋ねてみると「実は独立します」とのこと。ニコニコと笑顔ではいらしたものの、それ以上はおっしゃいません。

「うーん、せっかく相性も良くて施術も気に入っていたのに残念!」と思った私は、思い切ってこう言いました。「あの、もしお差支えなければ、お店の場所などを教えていただけませんか?」

実はこのように尋ねること自体、私には気が引けました。何しろ彼女はまだそのお店の現役スタッフですし、もし私が彼女の後を付いていき、今のお店に行かなくなれば、彼女の上司や同僚が「退職と共に彼女はお客様を持っていった」と思わないとも限りません。通訳業界でのルールを知る分、そこは私も慎重にせねばと思いました。

彼女も一瞬、どう反応して良いか迷っていたようでしたが、私の名刺を受け取って下さいました。そのやり取りもあまり目立たない形でしたね。「今のお店は大好きで、こうして育ててもらったことに感謝しています。でも独立することは昔からの夢でした」とも述べていました。最後の最後まで自分が働いていたお店へ気配りを示していたのです。

そして数週間が経ち、独立後のお店の案内が郵送されてきたのですが、あいにく私も引っ越したり多忙になったりで、結局彼女の元へ行く機会を逸してしまいました。けれども自分一人で店舗を立ち上げ、自分の腕一本で開拓していった彼女は本当に素晴らしいと思ったことは鮮明に覚えています。

私よりもずいぶんお若い方でしたが、その覚悟と潔さに今なお私は敬意の気持ちを抱きながら思い出しています。

(2018年4月9日)

【今週の一冊】

「ニッポン・ビューティ」 Grazia編集部編、講談社、2009年

私は「芋づる式読書」が好きで、何かきっかけがあると、そこから関連本をどんどん読み進めることを楽しんでいます。今回ご紹介する本も、そのような流れで出会った一冊でした。

きっかけは後藤新平の伝記を読んだことでした。そこには相馬事件について書かれていたのです。相馬事件というのは明治に起きた相馬家をめぐるお家騒動です。「相馬」と言えば、「難民を助ける会」を興された相馬雪香さんがいらしたなと思い出したのでした。ちなみに相馬さんは同時通訳者の草分けであり、お嬢さんは今も現役で活躍なさっている原不二子先生です。

相馬雪香さんについて早速調べたところ、インタビューが見つかりました。それが本書だったのですね。この本はファッション雑誌Graziaに掲載されたもので、相馬さんを始め、三木睦子さんや朝倉摂さん、黒柳徹子さんなども登場しています。私が敬愛する佐藤初女先生も出ていました。いずれも時代を切り開いてきた女性たちです。

どのインタビューも読みやすく、励まされる言葉もたくさんありました。いくつかご紹介しましょう。

「ひどいことを言った相手に口答えしていたら相手に引きずられたことになる。私はそれよりも、自分が理想とする私でいよう」(渡辺和子)

「人生の折り返し地点は50歳。そこからは、残る時間を自分の決めた目的に向かって進むしかない」(堀文子)

「言葉は人が生きていくための、助けになってくれる」(田辺聖子)

今とは価値観も社会もすべて異なる時代を生き抜いてきた素晴らしい女性たちです。元気が欲しい方にぜひともお勧めしたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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