INTERPRETATION

第350回 「誰のため?」を常に

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者に必要な能力として語学力と知識力が挙げられます。同時に私が重視しているのが「体力」。集中力を維持して同時通訳をするためにはスタミナが必要です。よって体力増強を図るべく、定期的に私は運動をしています。

スポーツクラブに行き始めたのは大学卒業直後のこと。会社との往復だけで運動不足を痛感したからです。エアロビクスやリラックス系のプログラムが充実したジムを選びました。そこで経験したとある出来事を今でも思い出すことがあります。

私がそこで受けたのはリラックス系のレッスンです。そのインストラクターは教え方が非常に上手で、私はそのクラスが大好きでした。そこでその先生の燃焼系プログラムにも出てみたのです。

ところが長続きしませんでした。

そのレッスンはエアロビクスだったのですが、動きがとても凝っており私にはついていけなかったのです。他のメンバーさんたちはとても上手で、私だけ足がもつれそうになりながらの1時間レッスンでした。スタジオのあちらこちらへ動くため、私は周囲にぶつからないようにと神経を使い、手を上げたり足を上げたりの動作は数カウント遅れる始末。お手本の先生の動きは無駄がなく美しく惚れ惚れするほどでしたが、私にはどう頑張っても無理だったのです。私には消化不良・不完全燃焼のレッスンでした。

「先生は好きだけどついていけない。周りのメンバーさんにも迷惑だから、このレッスンはやめよう。」

そう思った私は、やがてその先生のクラスそのものから足が遠のいてしまいました。

それからしばらく経った頃、別の先生の燃焼系クラスに出てみました。

そのインストラクターさんはレッスン前の説明で「このプログラムを皆さんに好きになっていただきたいんです」と繰り返しおっしゃっていました。そのレッスンをこよなく愛している様子がうかがえます。「振付についていけなくても大丈夫。別の簡単な動きをお伝えしますから、ぜひそちらで動いてくださいね」と述べていました。

実際、レッスンが始まってみると、上級者はハードな動きを、一方、私のような初心者はオプションで動くことができ、あっという間にレッスンは終わりました。汗もたっぷりかき、音楽も楽しめて達成感に満たされました。

この出来事は私自身の通訳授業にも通じると感じています。と言いますのも、授業の教材を選ぶ際、どのレベルに照準を合わせるかで悩むからです。

駆け出しのころは「通訳者を目指すなら、これぐらい難しい教材を」と意気込んで指導していました。けれども、私がアウトプットの見本を示しても受講生は「はあ、お見事~」という表情です。実際のパフォーマンスをそれぞれ披露してもらっても、尻込みしてしまったり不完全な訳出だったりということが続いたのです。結局、その授業は空振りに終わり、私自身も指導面で反省点を感じました。そしてそれ以上に受講生たちは、「せっかくお金を払って授業を受けたのに」というフラストレーションだけが残ったことでしょう。

私がそこから得た教訓。それは指導にしても通訳現場においても、教員や通訳者が「どや~!」と披露する場にしてはならない、ということでした。通訳の授業は演習型ですので、主役はあくまでも「学ぶ側」です。学習者が「今日、この授業に出て良かった」と思えるような満足感を提供せねばならないと感じます。会議通訳も同じです。通訳者が「千本ノックをとった」となるのではなく、聞き手が「今日、この会議に来てよかった。内容がよく分かった」と満足していただく必要があります。

仕事というのは「誰のために?」を常に意識しながら進めるものだと感じます。

(2018年4月16日)

【今週の一冊】

「埼玉たてものトラベル」 埼玉たてものトラベル委員会編、メイツ出版、2015年

旅先でウォーキングツアーに参加するのが好きです。先日訪れたロンドンでは第二次世界大戦中に造られた地下壕のツアーに参加しました。ガイドさんが戦時中の様子や地下壕の使用用途などについて詳しく説明してくださり、非常に楽しかったですね。

今回ご紹介するのは埼玉県内の建物に関する一冊です。邸宅や公共建築物などの歴史的建造物には欄間や柱、ドアや窓などに美しいデザインが施されています。そのようなディテールに注目したい方にお勧めしたいのが本書です。

東京から電車で30分ほど出かければ、埼玉県内の珍しい建物を訪ねることができます。たとえば鋳物の街として知られる川口市内には、「旧鋳物問屋・鍋平別邸」があります。おしゃれな洋館の中には美しいステンドグラスがあり、まるで神戸の洋館のようです。一方、新座にある「立教学院聖パウロ礼拝堂」は著名な建築家アントニン・レーモンドが設計しています。さらに県北まで足を延ばせば、深谷の赤レンガを味わうこともできます。

巻末には埼玉の隠れた名産品も紹介されています。東京から日帰りコースで楽しめる埼玉県。本書を片手に建物巡りをすれば和洋・新旧の建築物を味わえるでしょう。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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