TRANSLATION

第11回 翻訳を始める方に -翻訳者心得-

横田晴子

治験翻訳入門

 これまで10回にわたって、治験翻訳の「基礎の基礎」ともいうべき医薬品開発の流れとその内容について、駆け足でお話してきました。薬事の専門家や各分野の担当者の方々からみれば、不備は多々あると思います。また「なんだ、こんなことを今更」という事項もあるでしょう。しかし、文科系出身者が初めて治験関連の翻訳をする際にブチ当たる「えっ?これ何?」の背景に簡単にふれてきたつもりです。ここから先はその時々のニーズに応じて、皆さんご自身で調べてください。それが一番身につく勉強法です。

 そのような訳で、医薬品開発とその各段階で発生する文書に関するお話は前回でおしまいです。この講座では和訳に必要なことを中心に書いてきましたので、触れなかった事項もかなりあります。例えば「治験相談」のための「概要書」(Briefing book)、「治験相談記録」(Record of clinical trial consultation)などはしばしば英訳が必要になりますし、内容的にも難しいものです。またCIOMSと呼ばれる書式による副作用報告も翻訳需要が多く、どちらかといえば英訳が多いですが、和訳もあります(CIOMSはCouncil of International Organizations for Medical Scienceという機関の略ですが、ここで作成した国際共通書式をもCIOMSと呼んでいます)。また、GCP上必要な業務標準手順書(SOP)も英訳和訳共にあります。これらについては実際に翻訳を始める際に調べてください。

 そこで最後に、今回は翻訳者として心がける点についてお話します。これらのポイントのほとんどは医薬品開発のみならず、さまざまな分野の翻訳にあてはまると思います。

1.翻訳に絶対的正解はあるか?

 「いつでもこれが正しい」という意味での「絶対的正解」はありません。例えば本講座の第6回で述べたように、治験ではinvestigational drugは「被験薬」です。そしてstudy drugは「治験薬」で、これは治験に用いられるあらゆる薬剤を指し、「被験薬」も「対照薬」も「治験薬」に含まれます。治験以外ではstudy drugは「試験薬」や「試験薬剤」と呼ばれます。このように、その文書、文脈にふさわしい訳こそが「正解」なのです。その「正解」に到達するためには、まず「どのような分野のどのような文書であるか」を知る必要があります。そして「そのような分野、文書で標準的に使われている用語は何か」を調べて、初めて「正解」にたどり着くのです。辞書的に正しくても、文脈の中では正しくないことは多々あります。そのようにして正解にたどり着くために参照すべきサイト、ガイドライン、用語集などについて、本講座の中で開発の段階ごとに述べてきましたので、参照して下さい。

2.辞書

 辞書は言うまでもなく、翻訳に不可欠なツールです。一般的な英和・和英辞書もあれば、医学を初めとするさまざまな専門辞書もあります。また書籍もあればWeb辞書もあります。使い勝手がよいのはWeb辞書で、内容の更新も早いです。

 書籍版の一般の英和・和英辞書はなるべく大きなものがオススメです。引く時にめんどうかもしれませんが、その言葉の語源やそこから派生してきた意味などもわかるので、一語だけの訳ではあてはまらない場合でも、自分で考えることができます。

 私は英和も和英も研究社の大辞典を使っています。書籍版もありますが、現在ではWeb版(http://kod.kenkyusha.co.jp/service/)しか使いません。これは医学その他の科学分野の用語もかなり詳しく載っていますし、英和としても和英としても、また活用辞典としても使えます。またWebsterなど英-英もoptionで付けられます。「英辞郎」(http://shop.alc.co.jp/cnt/eijiro/)(CD-ROM版、On-line版あり)も、思いがけない新語が載っていたり、また自分用に用語を追加したりという点は便利です。しかし、特殊な用語を検索して何の説明もなしに対応する1語だけが出てくるのは、便利なようでもやや不安があります。言葉は背景なしには成り立たないからです。そのような訳で、辞書は1つだけに頼らず、納得のいかない場合は他の辞書もあたってみることが大切です。また、矛盾するようですが、辞書は色々な会社から様々なものが出ていますので、要は自分で使いやすいものをMainの辞書としてもつことです。

 英-英辞書は説明が英和辞書よりわかりやすい場合があり、また英訳には和英のほか英-英も必須です。コリンズ・コウビルド英英辞典(CobuildConv.zip)には時々「目からウロコ」のわかりやすい説明や文例があります。

 専門分野の辞書は医学のほか、生化学、化学、薬学、遺伝学、免疫学など、さまざまな分野のものがあります。一度に揃えるのは大変なので、そのような分野の仕事が入った時でよいと思いますが、医学辞書は必須です。

 ドーランド図説大医学辞典(http://www.hirokawa-shoten.co.jp/2008/10/28.html)(常用版ほか様々な版があるので注意)(英文最新版30版はWeb版あり)、ステッドマン医学大辞典(http://www.medicalview.co.jp/stedman/stedman03.shtml)(CD-ROM版あり)などがあります。

 専門辞書は各学会のサイトに無料のものが載っていることもありますので、調べてみてください。医薬品開発関連の文書には生化学用語は頻出しますので、生化学辞典は1冊持っていてもよいでしょう。またWikipediaなどで検索してもある程度は出てきますので、探し物名人になっておくことも大切です。

 学問的な専門用語のほか、Marketing関係も含めた「業界用語」というものもあります。

「欧和・和応対訳 医薬業界用語集」(書籍:日本製薬工業協会http://www.jpma.or.jp/)は業界用語のほか、厚生労働省の組織名の対訳や、各国規制当局のURLなども載っています。

 行政の出すガイドライン、通知、公定書もその多くは英訳されていますので、その分野の用語を拾い出すのに役立ちます。ことにICHガイドラインは元が英語で、それを参考に日本のガイドラインを作っていますので、両者は全く同じではないものの、大変参考になります。どの分野でどのガイドラインを参照するかについては、これまでの講座で引用してきましたので、参照して下さい。

3.用字・用語、表記

 日本語の用字・用語、単位など表記については、一般の用字・用語辞典のほか、行政で使われている用字・用語の例としては、日本薬局方の「作成要領」(http://www.nihs.go.jp/mhlw/jouhou/jp/jp15_genan_sakusei_youryou.pdf)が参考になります。行政で使われているものは、新聞などとは少し異なります。日本薬局方は英文についても「英文作成要領」があります。ことに規格や試験法などの英訳に参考になります。

4.自分の辞書・用語集を作ろう

 翻訳する都度、気づいた用語を拾い出し、分野別に整理します。分類はあまり厳密でなくてもよく、例えば、「治験のプロセス」「添付文書」「有害事象報告」「癌領域」「循環器領域」など、自分がよく関わる領域のおおまかなものでよく、あまり細かくしすぎると、どの分類で探したらよいのか、かえってとまどうこともあります。Excelで検索できるようにして、何の翻訳で出てきたかも入れておくとよいでしょう。

5.自分に投資しよう

 本やWebだけではなかなか系統的な知識が得られなかったり、読んでもよくわからなかったりすることがあります。時には各種セミナーに出てみるのもよいと思います。翻訳だけでなく、開発や行政に関するものも参考になることがあります。ただし、製薬企業対象のものは受講料が結構お高いので、よく的を絞ることが大切です。

・ 日本メディカルライター協会(http://www.jmca-npo.org/)

開発関連のドキュメントを書くメディカルライターや製薬企業関係者、医学論文を書く医師など、医学関係のドキュメント作成に関わる様々な人々の団体で、もちろん、通訳・翻訳者も参加しています。翻訳も含めてメディカルライティングやコミュニケーションに関わる様々なセミナーが年間を通してあります。年会費\8,000のほか、セミナーごとに数千円の参加費が必要ですが、他の団体やセミナー会社のものに比べれば、かなり安いです。参加は人脈の開発にも役に立ちます。

・ 医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団(http://www.pmrj.jp/index.html)

以前「公定書協会」と言っていた財団で、薬事・開発関係のセミナーを実施

・ サイエンス&テクノロジー(http://www.science-t.com/)

さまざまな分野の開発関連セミナーや書籍を出版。翻訳関連のセミナーも時々ある。

医薬業界向けなので、受講料は高めだが、翻訳は場合によって講師割引がある。通信教育もある。

・ 情報機構(http://www.johokiko.co.jp/seminar_medical/index.php)

さまざまな分野の開発関連セミナーや書籍を出版

 その他、医学系、薬学系の大学でも、公開講座を開くことがありますので、各大学のHPなどをチェックしてみてください。また、読者の方々は主に在宅翻訳を目ざしておられるのでしょうが、機会があれば、どんな形であれ、製薬会社内の仕事を経験してみるのもよいと思います。間接的な情報だけではわからない、医薬品開発の現場の状況がわかると思います。翻訳の質はどれだけ自分の情報の引き出しをもつかで変わってくるのです。

6.最低限これだけは気をつけよう

1) 受注する前に全体にざっと目を通し、分量と内容を検討しましょう。なじみのない領域の場合、「何ページだから何日」と計算通りにいかないこともあります。

2) 原文とともに参考資料、用語集を貰いましょう。ない場合は自分で探し、少しでもその文書で扱っている領域に馴染むようにします。

3) 知らない疾患、知らない作用機序の薬の場合はある程度参考資料を読んでから訳した方が速い。基本的なことを知らず、イメージのないまま訳すよりも、「急がば回れ」です。

4) 納期の1~2日前に訳し終わるように作業量を割り振り、最後に全文を読み直す時間を作ります(結構不備が見つかります)。

5) 前日訳した部分について、翌朝一番に以下をチェック。

・ 訳ヌケ、モレはないか、原文と1行ずつ対比(1行、あるいは1パラグラフそっくり抜けることがある)

・ 誤字・脱字、数字・スペル・単位の誤記はないか(数字の桁間違いや、スペルミスは、原文と突き合せないかぎり、わからない)。

・ 用字・用語の統一(用語を「置き換え」る時は一箇所ずつ。一括で置き換えると、置き換える必要のない箇所まで置き換えてしまうことがある)

・ 原文にGlossaryがあれば、略語等もそれに従う。同じ薬の別の文書の訳があれば、その訳語に従う

・ 肯定・否定が逆になっていないか(原文とつき合わせずに読み流していると、気づかない)。

・ 訳文を読み直して、論旨がスンナリ頭に入るか(声に出して読んでみるとよい)

6) 万一に備えて、訳文のバックアップを毎日作成する(CDやUSB memoryなど)。

7) 体調管理に気をつけよう。

・ 熱を出したり、薬を飲んだりすると、勘が働かず、訳していてつらい。翻訳はヒラメキも大切で、言葉の置換えだけでは、何のことかわからない場合がある。

・ 長期戦の場合、家事や散歩、エクササイズなど、身体を動かして、頭痛、肩こり、眼の疲れなどを予防しよう。

8) 訳していて煮詰まってしまったら…

・ それまでに訳したところを読み返してみる。ヒントが見つかるかもしれません。参考資料に戻るのもよいかもしれません。

7.最後は自分の文章で!

 用語、訳例は十分踏まえた上で、最後は自分の文章で書きましょう。こなれていない文は読みにくいものです。

 TRADOS等の翻訳支援ツールは定型文が多い文書には向いているかもしれません。ただし、その場合にも、常に自分でmaintenanceして利用することが必要です。文というものはそれを書いた人の目が背後にあって、初めて生きてくるのです。

 チェスの対局でコンピュータが人に勝ったということですが、それは過去のデータの積み重ねの上に立って勝ったのです。ところが、言葉というものは実は使う人の数だけあって、常に新しく変身していくのです。そのことが人間を進歩させてきたともいえます。いつも「ちょっとだけ」それまで見えなかったものを認識して変わっていくのです。翻訳する際もそのことをどこか頭の片隅において、自分の言葉に自信を持って訳してください。

私の「治験翻訳講座」はこれで終わります。色々「冷や汗モノ」の部分もありましたが、つたない講座にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。皆様の翻訳者としてのご発展を心から願っております。

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記事を書いた人

横田晴子

国際基督教大学を卒業後、株式会社医学書院にて内科雑誌の編集を担当。その後サンド薬品株式会社にて、医療機器開発、医薬品開発関連の翻訳を担当。合併によりノバルティスファーマ株式会社となってからも、医薬品開発関連の翻訳および翻訳外注管理を担当。2003年には同社にてメディカルライティング部署創設に参画。退職後は外部委員として社内治験審査委員会に参加し、また、フリーランス翻訳者として医薬品開発関連の翻訳に従事。

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