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宿命の裏ルート(前編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

子供の頃、友達とマジックをして遊ぶのが好きでした。

ハンカチを使ってコインを消して見せたり、相手の選んだトランプのカードの数字を当てたり、いま思い出してみると稚拙なおもちゃを使ったトリックなのですが、タネがばれずに相手を驚かせたときの興奮は鮮明に記憶に残っています。稚拙なタネであっても、それが相手に見えない限り私は相手の「見えていない世界」にこっそり身を置き、「見えているもの」に囚われた相手を操るスリルと優越感を味わっていたのだと思います。

こんなトリックがあります。マジシャンが相手に対して、「ここに置いた4枚のカードの裏には1から4までの数字が書いてあります。どれでも好きなものを選んでください」と言います。相手が選んだカードに3と書いてあると、「では、テーブルに置いてあるその本の表紙をめくってください」と言う。本をめくると「あなたは3を選ぶ」と書いてある。

察しのいい方は既にお分かりかもしれませんが、このトリックは単純です。あらかじめ本に「あなたは3を選ぶ」と書いておくのと同様、他のものにも同様のメッセージを書いておくのです。コーヒーカップの裏には「あなたは1を選ぶ」、椅子の裏には「あなたは2を選ぶ」という具合。そして相手が選んだ数字に合わせて後からメッセージを選ぶだけ。

トリックに引っかかった人には、「マジシャンが予測した通りに自分がカードを選んだ」ように見えますが、実際にはあらかじめ用意されていた4種類の「あなたは*を選ぶ」の中のひとつが、カードが選ばれた後に選ばれただけです。そもそもなぜ(コーヒーカップでも椅子でもなく)本の表紙に予測が書かれているのか、という疑問は浮かばない、浮かばせないというのがポイント。だからマジシャンは最初に「私はあなたがこれから選ぶカードを予測します」とだけ言っておき、予測がどのように準備されているか、その詳細から相手の注意をそらしておく必要があります。

言い換えると、これは「あなたはこうなる運命だった」というストーリーが、実は後から作られる、ということです。ドイツの哲学者ヘーゲルのいう遡及的時間(retroactive temporality)の概念もこれと同じロジックを使っています。歴史的な出来事は、それが必然的なものとして認識されるが、そもそもその必然性自体が偶然性の中から生まれる、というもの。

稲作の発明、応仁の乱、産業革命、民主主義の誕生、等々。私たちは歴史を学ぶとき、「これはAという背景でBという事件が起き、それがCへとつながってDが発生し、Eとなった」といった「必然的なストーリー」を認識します。でもその「必然」は偶然の連鎖がある山場を迎えて「出来事」と認められたときに、その時点から振り返って「そもそもこれはAから始まっていたのだ」と後付けて作られるものだ、ということです。3のカードが選ばれたときに「あなたは3を選ぶ」というメッセージを選ぶように。

現在放送中のNHK連続テレビ小説「スカーレット」では、主人公・川原喜美子の息子・武志が白血病にかかり、余命数年と宣告される回がありました。我が息子に突如降りかかった悲劇をどうしても受け入れることができない喜美子は、その思いを幼馴染の照子にぶつけます。なぜあの子がこんな目に逢わなければならないのか?あの子は何も悪いことなどしていないのに、と。

「悪いことをしていないのになぜこんな目に逢うのか」とは、「この出来事が起きなければならない理由を教えて欲しい」という意味ですから、偶然起きた出来事に必然を求めていることになります。例えば「**という悪いことをしたから」という理由が知りたい。「あなたは3を選ぶ」というような明確な答えが欲しい。それがあって初めて出来事を受け入れることができる。「逃れられない運命だったのだ」と諦められる。逆に、それがわかるまで受け入れることができない。ということは、理性的に出来事を受け入れる、とは「必然」を作るということなのです。

これは悲劇的な出来事に限ったことではありません。例えば昨年はラグビーワールドカップが日本でも大いに盛り上がり、多くのメディアが日本代表の8強入りという快挙を大々的に取り上げました。「**選手のこれがよかった」「『笑わない男』の秘めた闘志がチームに貢献した」「One Teamというスローガンが選手の意識を高めた」等々。各メディアとも結果に対して「こうだから、こうなった」という「必然」を語っていました。でも、もしも日本チームが惨敗していたら?「**選手のこれが裏目に出た」「『笑わない』からダメだったんだ」「One Teamなんて甘ったるいこと言ってたから負けたんだ」という言葉がメディアに溢れる様子を想像してしまうのは私だけでしょうか。偶然の結果から後付けで「そもそも最初からこういう運命だったんだ」と歴史(必然)が作られるのではないでしょうか。

必然と偶然のこの奇妙な関係は、私たちが「必然」の名の下に「現在がこうあるのは、そもそもこういう風に決まっていたんだ」という宿命的な世界観に囚われていることを意味していないでしょうか。マジックのトリックに引っかかった人が「そもそもなぜ本の中に答えが書かれてると決めなくてはならないのか?」という疑問にたどり着けないように。

つまり、理性的であることが人間的であるとするなら、私たちは最初から「宿命」の檻に囚われた身である、ということ。

後付けで作られた「宿命」のトラップにはまった私たちに必要なのは、その「宿命」を作り出しているのは目の前の事実ではなく、コーヒーカップや椅子から目を逸らして「本にだけに答えがある」と思考する理性のトラップにある、と見抜くことだと言えないでしょうか。

英語に「Think outside the box」ということばがあります。箱の外を見ること。自分がはまってしまった理性のトラップを抜け出し、その外を見ること。哲学的思考の醍醐味のひとつはここにあります。前回の記事で私が「役に立つか、もしくは役に立たないかの箱」という比喩を使ったのはそのためです。

とはいえ、宿命の箱の外を見るのは容易ではありません。いくら「宿命とは思考のトラップによって作られたものだ」と言ったところで、多くの場合、「目の前にある事実は事実に見えて事実ではない」といった非常に青臭いことばに受け取られてしまいます。

青臭いことば、つまり抽象的で理解や共感を得られないことばを使わずに、「箱」から思考を解放する方法、本に書かれた「あなたは3を選ぶ」だけではなくコーヒーカップや椅子などにも目を向ける方法、後付けの「宿命」を作り上げてしまう理性の裏ルートを見つける方法はあるでしょうか?

例によって映画を取りあげて考察してみたいと思います。

(後編へ続く)

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<今日のことば>

「宿命的な世界観」は「宿命論」と言い換えることができ、fatalismと訳せます。関連することばで「決定論」はdeterminismと訳します。

fateはラテン語の「神託」を表すfatumからきており、「神によって告げられてた言葉」という意味があります。

retroactiveのretro-はラテン語で「後ろへ」「さかのぼって」という意味の接頭辞retro-からきています。「回顧的、追想的」という意味のretrospectiveにも使われています。

Written by

記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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