TRANSLATION

タイムアウト、ズームアウト

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

さて、いま世界はretreatの時期に入りました。

英語のretreatは「撤退する」「後退する」「安全な場所に避難する」「引きこもる」といった意味があります。ラテン語のretrahoを語源とし、re=「後ろへ」とtraho=「引く」から成り立ちます。trahoは英語のdragの語源でもあります。要するに後ろへ身を引く、という意味。

好むと好まざるとにかかわらず、世界中の人間が一斉に「引きこもり」になること要請される事態が起きるなんて、誰に予想できたでしょうか。

感染を避けて家に引きこもること、仕事、教育、社会的交流のほとんどに規制がかかることはそのまま経済の後退にもつながるわけで、いま世界はかつてない「step back」の時代に突入した、と言えるかもしれません。

Step backは後ろ向きな姿勢かもしれませんが、同時に私たちが成立させている世界から一歩後ろへ下がり、それまで見えていなかったものを見る機会にもなります。

私は少し前に見た映画『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017)を思い出しました。

フロリダ州のディズニーワールド近くにあるモーテルにシングルマザーの母親と暮らす6歳の女の子ムーニーの視点から見た夏休みの物語。モーテルに暮らすということは、定住する家がなく実質ホームレスのような経済的状況にあることを意味します。ムーニーの母親ヘイリーはおそらく二十代で、ストリッパーとして働いていた店をクビになってからは定職につかず、近所のリゾートホテルの入り口前で宿泊客に安物の香水をブランド品だと偽って売りつけその日の食事代を稼ぐような生活。同じくシングルマザーの友人の息子の面倒を見る代わりにその友人がウェイトレスとして働くダイナーから食事を横流ししてもらう毎日。

そんな家庭環境にあってもムーニーは燦々と降り注ぐフロリダの日差しのもと、無邪気に友達と遊びます。突き抜けるような青い空に白い雲が浮かび、「夢の国」の近くにある彼女のモーテルは鮮やかなパステル調の紫に彩られ、芝生や林の緑は夏の光を浴びて輝き、映画はどのシーンも晴れやかな色に満ち溢れています。

同時に、天真爛漫なムーニーの姿はその裏にあるものを浮かび上がらせます。その年の子供がよくするようないたずらをして大人たちを困らせたりしますが、時としてその度合いが「無邪気な子供」の域を超えているからです。別のモーテルの二階から駐車場に停めてある車へ友達と唾を吐きかける競争をし、住民に咎められても悪びれることもなく相手に悪態をつく。モーテルの配電室に忍び込んで建物中の電気を落として住民を激怒させても知らんふり。廃屋に忍び込み暖炉に火をつけ建物を全焼させても、一緒にいた友達に口止めまでして自分は涼しい顔、という具合。

母親のヘイリーの影響であることは明らかです。ヘイリーは家賃の滞納をモーテルの管理人に咎められれば口答えと悪態を繰り返し、偽の香水を売っているところをリゾートホテルの警備員に注意されれば相手を罵倒する。生活費に困るとモーテルの自分の部屋を使って売春を始め、それを管理人が咎めれば中指を立ててまた罵倒。さらには自分の売春行為を蔑んだ友人(ダイナーの食事を横流ししてくれていた友人)に飛びかかって馬乗りになり、顔が腫れ上がるまで殴りつける。ムーニーがこの母親のような大人になってしまうという負の連鎖が浮かび上がります。フロリダの光に満ちた景色やムーニーの無邪気な笑顔とのコントラストがその暗い未来の予感を強調し、観ている私たちを息苦しくさせます。

ついにムーニーと母親の生活にも終わりが訪れます。母親の暴力事件が通報され、州児童家庭局の職員によりムーニーは母親から保護され、里親へと送られることになります。職員に連れ出されるあいだの一瞬の隙をついてムーニーは逃げ出します。いつも一緒に遊んでいた友達ジャンシーの部屋にたどり着き、泣きなが別れを告げると、ジャンシーはムーニーの手を取って走り出します。手を繋いだ二人がディズニーワールドの人混みに消えていくショットで映画が終わります。

映画は普段私たちの目に映らない現実を見せています。別名「Sunshine State」と呼ばれるほど光に満ちたフロリダ、夢の国、リタイヤした富裕層が住む土地、というイメージからは見えてこない現実。シーンの多くは超ロングショットで撮られ、画面を覆うほど大写しになるモーテルや商店の前を確認できないほど小さな姿のムーニーたちが歩くシーンが多用されます。私たちが知る世界の端に追いやられ、取りこぼされ、その存在を見過ごされてしまう彼女たちを象徴するように。

パンデミックが起き、いま私たちは世界から一歩後退して、それまで見えていなかったもの、見えないことにしていたものを見ているのないでしょうか。私たちの社会のシステム自体がムーニーたちのような犠牲を生み出さずには成り立たないという事実。つまり、「有事の際に全ての人の生活を保障すること」を放棄した上で社会が回っていた、という事実。

では、どうすればいいのか?パンデミック以降、私たちはどのように社会を再開すればいいのか?再開するべきなのか?Zoomで一緒にジョン・レノンのイマジンを歌うことでは見えて来そうにない、と思ってしまう私はひねくれ者でしょうか。

プラトンの哲学の核にある命題は「目に見えているものだけが全てではない」というものです。世界から視点をずらし、それまで見えていなかったものを見ることが哲学の本質だとすれば、いまretreatする私たちが目にする光景は哲学的な思考の契機と言えるのかもしれません。

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<今日のことば>

「引きこもり」は欧米メディアでHikikomoriと表記されることも多く、また隠遁者を意味するreclusiveや、より学術的な表記としてはsocial withdrawal syndromeなどと言われることがあります。

「負の連鎖」はnegative chain reaction、vicious circle、downward spiralなどと訳せるでしょう。

「有事の際に」はin time (case) of emergency、in time of needなどと訳されます。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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