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選択肢、影、連帯(前編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

私の哲学の師匠はアメリカ人哲学者のリチャード・バーンスタインです。私が母校ニュースクールで博士論文を執筆したときの指導教授が彼でした。「指導」教授とはいえ具体的な指導はほとんどなく、私が書いた論文を章ごとに査読してコメントをくれるのが主な役割でした。

「No. Don’t start from there(違う。そこから始めるな)」 いまでもよく覚えている教授のことばです。私が議論を始める際、その始め方が間違っていることをよく指摘されました。議論それ自体はロジックに沿って進めていけばある程度の結論までたどり着くことができますが、その議論がそもそも前提としている認識が間違ってると議論のスタート自体がズレたものになり、いくら厳密な論理展開をしたところで空虚なことばを並べるだけになる。思えば彼が私にしてくれた最も哲学的な指導は「間違ったところからことばを始めるな」でした。

哲学の議論でよく使われることばに「pseudo problem(偽の問題)」というものがあります。重要だとしてこれまで様々な人が様々に議論してきた問題が実は重要ではなく、本質的な問題は別にあった。間違った前提をもとに偽の問題を本当の問題と錯覚したがゆえに、これまでの議論は最初から出口のない虚しいものだった、という具合に指摘されます。

哲学の本質はpseudo problemからauthentic problem(真の問題)へと視点を移動することだと言えるでしょう。プラトンの著作『Republic(国家)』の中に出てくるAllegory of the Cave(洞窟の寓話)がそれを端的に表しています。彼は私たち人間を手足を縛られて洞窟の中に閉じ込められた囚人に例えました。囚人は身動きがとれない状態で洞窟の壁に向かって座らされている。彼らの背後には人形を操る人形師がいて、火の前で人形を操り、人形の影が囚人たちの前の壁に映し出されている、そんな状態。囚人たちは目の前で動く影を「現実」と勘違いし、それが背後の人形師によって生み出されたpseudo現実であることに気づかない。哲学者とはpseudo現実の背後にある本当の現実に目を向け、手足に繋がれた鎖を断ち切り、洞窟の外に出る者のことである、と。

感染拡大防止のために移動の自由を制限され、メディアから流れる極めて部分的な情報に一喜一憂する私たちの姿が洞窟の囚人に重なる気がするのは私だけでしょうか。例えば「本日の感染者数」に過剰に反応する姿。そもそも大手メディアのほとんどが検査件数などの詳細を明かさずに報道している現状の中、どれだけの人が各市区町村のホームページ等でそうした詳細をまめにチェックしているのでしょう。感染者数だけを知ったところで一体何を「知った」ことになるのでしょう。

「自粛すべき vs 経済を再開すべき」という対立を煽る報道に反応するのも同じことです。「ウイルスは飛沫から感染する」のは科学的に実証された事実なのだから「お互いに距離を保つべき」なのは当たり前で、「あらゆる社会活動を止めることは不可能」なのも当たり前。だから「距離を保ちつつ工夫して社会活動をする」以外に正解は存在しません。わざわざ「自粛か?それとも経済再開か?」とどちらかに「正解」があるような問いを浮かび上がらせることばからはpseudo problemしか生まれず、間違った問いは感染者を犯罪者扱いする「自粛警察」や、高齢者や基礎疾患のある人を犠牲にしても経済を再開すべきだとする優生思想などを誘発することにもなりかねません。

そして「ウィズコロナの時代のー」といったバズワードで語られることばにも大いに注意が必要です。自粛と経済再開の「どちらが正解か」の問いと同様、キャッチーなバズワードと共に流されることばの多くは「これからどのように社会を継続すればいいのか」「どれが正しい選択肢か」といった方法論を云々するだけで、要するにテクノロジーを駆使して崩壊寸前の社会をつなぎとめる、もしくはピンチをチャンスと捉えてテクノロジーでブレイクスルーを起こす、というストーリー作りにすぎません。コロナウイルスの全貌もまだ解明されていないのに「問題は◯◯だ、だから●●で解決する」というストーリーがどこまで信憑性をもつのでしょう。

要するにそれら全てのpseudo problemは、前代未聞の事態を前にした私たちの不安の埋め合わせとして操り人形の影が目の前の壁に投影されただけではないでしょうか。どうすればいいか分からない、だから「こうすればいい」という言葉に飛びつく。聞こえのいい選択肢に飛びつく。私には「No. Don’t start from there」ということばが聞こえます。

「どうすれば社会を存続できるのか?」というpseudo problemから抜け落ちているのは「私たちにとって『社会の存続』とは何か?」という問いです。これは「私たちは『社会』ということばで何を意味しているのか?」という定義の問いであり、「私たちはどのようなものを『社会』と呼びたいのか?」という意思の問いでもあります。

ベルギーのダルデンヌ兄弟監督の映画「サンドラの週末(Deux jours, une nuit)」を取り上げて考察してみましょう。

(後編に続く)

 

注:後編は例によって映画のネタバレが含まれます。ご興味のある方はレンタル等で借りてみてください。

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<今日のことば>

「一喜一憂する」はwaver between hope and despairと訳されます。

「不安を〜に投影する」はproject one’s anxiety ontoと訳すことができるでしょう。Projectは心理学が説明する防衛機制(defense mechanism)の一種、psychological projectionに由来しています。

「前代未聞の」はunprecedentedと訳されることが多いですが、unheard-ofという表現もあります。

Written by

記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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