INTERPRETATION

第407回 好きなことを正々堂々と

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

暑い毎日が続いていますね。4月の新年度開始とともに駆け抜けてきた方々にとって、夏休みは貴重なひとときであることでしょう。

昔からせっかちだった私にとって、通訳という仕事はある意味、自分の性格に合っているように感じます。なぜなら一刻一秒を争いつつ訳語を同時通訳する必要があるからです。じっくり考えるよりも、瞬発力でアウトプットをおこなうというのは、大変ではありますがスリリングにも感じます。お給料をいただきながら新たな知識をインプットできるというのも魅力です。ゆえにこの仕事を長年続けられているのでしょう。

時間にシビアになるのが染みついてきたためなのか、日常生活でもタイマー片手にあれこれ工夫するのは私にとって楽しいことです。「あと5分で自宅を出るのであれば、タイマーをかけてこの本を読み終えよう」「電子レンジで3分間ご飯を温めている間にシャドーイングができる」という具合です。こうして「きちんと」何かをおこなうことがレースのように感じられるのかもしれません。手帳には「やることリスト」を作成し、一日の終わりにどれだけ成し遂げたかを振り返ってみる。もちろん全部を達成することはできませんが、それでもチェックボックスに☑マークがあればあるほど、「ああ、今日も頑張った」と思えます。完全に自己満足の世界です・・・。

こうした「常にテンションMAX状態」というのは、体調が元気であればできることです。元気が元気を呼び、車輪を回し続けられるとも言えます。けれども人間は機械ではありません。体調が整わないときもあります。蒸し暑さや高温、あるいは冷房の風などで気分が優れなくなることもあるのです。

私自身、4月からずっと多忙な(厳密には「忙しがっていた」)生活を続けてきた結果、夏に入り一気に疲労が噴き出したようです。仕事のペースが一段落したため、体も「ああ、やっと一休みできる」と思ったのでしょうね。緊張状態が続いていたときは気力で乗り切ってしまっていたのです。

ただ、疲れが噴き出すとかえって厄介です。しかもこの暑さですので、余計どんよりしてしまいます。体が疲れると動きも鈍くなります。すると心の方が「あれ?今まで自分はもっと活力があったのに、この鈍さはなぜ?」と焦ってしまいます。それがどんどん悪循環となってしまうのです。鬱々状態になってしまうと、這い上がるのがさらにしんどくなります。

幸い私の場合、とあるセミナーに出かけたのが大きな転換点となりました。内容は「地図」に関するレクチャーで、「何となく面白そう。申し込んでみようかな」と軽い気持ちで参加したのでした。

私は子どもの頃から地図が好きで、ロンドンで大学院生活を送っていたころはアンティークショップの古地図をわざわざ見に出かけたり、大英博物館内の地図コーナーで何時間も過ごしたりしました。地図が描かれている切手やポストカードなどをせっせと集めたこともあります。けれども帰国後は通訳の仕事が忙しくなり、趣味としての「地図好き」を封印してきたのでした。

そうした中で出かけた地図セミナー。講師のお話は非常に興味深く、私の中で「ああ、そうだった、私は本当は地図が好きだったんだ」という思いが再び強く沸き上がってきました。と同時に、なぜ自分は大好きな趣味からあえて自分を遠ざけていたのだろうとも思ったのです。おそらく通訳の勉強が最大のプライオリティになっていたからなのでしょう。

人に生きる喜びや勇気を与えてくれるもの。それは書物であったり人であったりと様々です。けれども、実は大きなウェイトを占めるものとして、その人の「趣味」も大切だと私は感じています。

自分の趣味や時間を忘れてでも夢中になるようなこと。それは、たとえマイナーな分野であれ、流行とはかけ離れているものであれ、正々堂々と自分の人生の中心に持ってくるべきだと思います。どうかみなさんも「好きなこと」を堂々と追求なさってくださいね。

(2019年8月13日)

【今週の一冊】

“Dictionary of Pub Names” Leslie Dunkling, Gordon Wright著、Wordsworth Reference発行、2001年

イギリスで有名な時事問題専門雑誌と言えばThe Economist。日本でもおなじみですよね。そしてもう一つ、長き歴史を誇るThe Spectatorという週刊誌もあります。創刊は1828年で、政治や文芸の記事が充実しています。

中でも私のお気に入りは巻末にある“Notes on…”というコーナーです。数か月前にはパブの名前が取り上げられていました。それを機に読んだのが今回ご紹介する一冊です。

本書はAからZまで、イギリスのパブの店名が網羅されています。辞書と銘打っているだけあり、文字は細かく、非常に綿密な調査の上、発行された書籍であることがうかがわれます。巻頭にはカテゴリー別の見出しもあり、スポーツや鳥、地名、職業などにちなんだ店名を知ることもできます。

パラパラとめくっていくと、実に多様な店名があることに気づかされます。たとえばスコットランドにあるOverdraught(「当座貸越」の意)というパブ名は、「飲み過ぎるとお金がなくなってしまう」という意味から誕生しています。一方、アポロ号の月面着陸にちなみ、Man on the Moonというパブも存在します。

私は「飛行機」「手紙書き」「切手・郵便」「地図」などに関心があります。そうした分野に関連した店名があるかどうか探してみると、意外とありました。たとえばAirman、Jumbo Jet、Stampsなど、実在する店名です。

イギリスで旅行中、パブに入った際、”Under New Management”という表記を見たことがあります。これは経営者が変わったことを表すものです。たとえ経営者が別の人になったにせよ、店名は変えないというのがイギリスのパブの在り方なのでしょうね。店名とは歴史をそのまま現在につなげている、そんな印象を抱いた一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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