INTERPRETATION

第76回 どうしても辛いとき

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は書店めぐりが大好きで、時間さえあれば本屋さんをのぞいています。ネットの書店でもよく買うのですが、自分が知らない分野の本と思いがけない出会いがあるのも実在の書店ならではです。最近はビジネス書の部門がどこも元気で、タイトルだけ見てもモチベーションが上がるような書籍がたくさん並んでいます。時間をどうすれば無駄なく使えるか、どのようにすれば売り上げを上げられるか、怒ったり叱ったりしないためのノウハウなどの本が陳列されています。うまく自分の人生に取り入れられれば、心身ともにより良い人生を送れそうです。

気分が乗っていればそうしたノウハウもしっくりいきます。ただ、人間はサイボーグではありません。どれだけ元気の出る本を読んでも、あるいはどんなに自分では努力をしても、「辛いとき」というのはあると思うのです。このコラムで私はなるべく前向きなことを書くようにしていますし、授業や仕事場でも楽しくするように努めています。でも心身の不調というのは誰にとっても訪れるものだと思います。

私の場合、疲労がたまったり、思いがけない場面で想像を超えるような状況に直面したりすることはあります。そのようなときというのは、おそらく誰もがそうだと思うのですが、出かけるのが億劫になり、普段できることも面倒に感じられてしまいます。今月上旬がまさにそのような状態でした。

ただ私の場合、あまり落ち込んでしまうと深みにはまってしまうようです。なので、なるべく気持ちが晴れるような文章を読んだり、楽しい映画を観たりするようにしました。中でも長友佑都選手の「上昇思考」は平易な文章で読みやすく、過日見た日本代表の試合を思い出しながら読みました。ひとつひとつの言葉が読者を励ましてくれる、そんな一冊でした。

読書や映画鑑賞以外にも心がけたことがあります。それは「周囲の笑顔からパワーをもらうこと」です。「今日は何だか疲れていて気乗りしないなあ」というときでも、あえて出かけてみるのです。そして自分自身、少々しんどくても、話す際にはがんばって笑顔を心がけます。すると話しているうちに楽しくなっていくのですね。「実は私はすごく疲れているけれど、もしかしたらこの人も笑顔の向こうに大変な悩みを抱えているかもしれない。なのにニコニコしてくれる」と思うと、本当にありがたく、そして励まされます。

そこでふと思ったのです。そうだ、私もそういう人間になろう、と。たとえ自分が辛くても、相手が「今日、シバハラさんと話せて良かった~」と思ってもらえるような、そんな存在でありたいと思うことにしたのです。

どうしても辛いというときは誰にでも起こりうるものです。ならば、辛いからこそ、前を向き、笑顔で乗り切ってみる。そして笑顔を送ることで自分も元気になる。そんな対処の仕方もあると思っています。

(2012年6月25日)

【今週の一冊】

「翻訳に遊ぶ」 木村榮一著、岩波書店、2012年6月20日

私は街に出かけると「フリーペーパー」をいただくのが習慣になっている。もともと紙媒体が好きであるからなのだが、「R25」や「メトロガイド」のような無料の情報誌でも、思いがけないトピックに遭遇できることが楽しいのだ。書店に出向けば出版社発行のPR誌も必ず入手する。今回ご紹介する一冊は岩波書店のPR誌に出ていた書籍である。

著者の木村氏はスペイン語の翻訳家。私はあまり小説を読まないので、南米文学には疎い。ただ、本の帯に「翻訳は苦しくて楽しい!」とあり、即決で購入した。通訳も苦しくて楽しい、からである。

木村氏がどのようないきさつで翻訳家になったかは本書に譲るが、辞書を編纂した恩師のエピソードや、夫人が厳しく翻訳をチェックしてくれたくだりなど、実に興味深かった。中でも次の2つの文章は仕事に関するもので印象的だった。

「十年間我慢して勉強すれば、誰でもそれなりに一人前の教師になれる。」

「楽しく仕事ができるように工夫すること」

一方、通訳者として心がけたい文章もあった。

「自然な訳語というのは、(中略)追いかけ、見つけ出すものではなく、向こうからやってくるもの」

「自分の訳にこだわったり、人から注文をつけられて、腹を立てたり、むくれたり、すねたりするのは、読者がいることを忘れて、自分が訳したものを評価してもらいたいという気持ちが強く出過ぎているということだろう」

「訳者にとって訳すという行為が一番いい生き方」

なぜ私は通訳という仕事を続けているのか?それはひとえに私にとって「通訳する」という行為が一番自分に喜びをもたらしてくれているからである。企業勤めや別業種の仕事もしてきたが、通訳者としての人生が一番長い。それが私にとって「一番いい生き方」なのだと感じている。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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