INTERPRETATION

第484回 価値感に沿って生きる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

フリーランスで働くというのは、メリットがたくさんあります。例えば私のように「満員電車が苦手」「特定の集団とずーっと一緒に働くのは不得手」「仕事のやり方を自分なりにどんどん創意工夫して効率化したい」というタイプの人間にとって、自由な働き方というのは本当に魅力的です。デメリットとしては、「収入が不安定」「自分の健康がすべて」「時代の流れにより、自分の仕事が無くなるかもしれない不安」などがあります。でも、そうしたことを上回る良さがあるのですね。フリーで仕事をする友人に話を聞くと、皆、同じようなことを口にします。

一方、デビュー間もないころの私は「来た仕事は絶対に引き受ける」を信条としていました。まだ業界内で自分の立ち位置がわからない状態でしたし、「一度断ると二度と仕事が来ない恐怖」があったからなのですね。幸いエージェントさんは各通訳者のレベルに合うお仕事を依頼してくださいますので、難易度面での心配は特にありませんでした。ただ一度だけ業務終了後に「このタイプの通訳は二度と受けたくない」と思ったことがあったのです。

それはビジネス現場における交渉の通訳でした。商談通訳自体はもともと好きだったのですが、その案件はどうしても私の価値観と相容れなかったのです。私が通訳することで、相手方は明らかに気分を害する内容でしたし、私自身が訪問側の一団と先方からみなされることが苦痛でした。「私の倫理的本心は、むしろ相手方に同調している。なのに私はそれを表すことができないまま、こちらサイドの主張を通訳せねばならない」というのは苦しいものだったのですね。

皮肉なことに、通訳自体はクライアントさんに気に入っていただけたのでしょう。数か月後にご指名でまた依頼がありました。けれども、私の倫理観とは合わないという思いが強かったため、丁重にお断りさせていただいたのでした。

「何を基準に生きていくか」

この問いへの答えは人それぞれでしょう。数年前に「嫌われる勇気」という本がベストセラーになったのを考えると、人間というのは「人から嫌われたくない」「評価されたい」という思いを抱く生き物なのだと思います。けれども、自分の本心を隠し続けるとそれが常態化してしまいます。そして自らの考えや価値観を封印して周囲に合わせることが無意識のデフォルトになってしまうと私は思うのです。

先週、東日本大震災から10年という節目を迎えました。震災当日、私は「自分が永遠に生きていられるとは限らない」という思いを強く抱きました。けれどもそれから10年間、幸いにも安泰な日々が続くにつれて、「100歳とまではいかないまでも、まあ日本女性の平均寿命ぐらいまでは生きていられるかな」という前提で暮らしていた自分がいたのです。

極限を経験した人、人生においてとてつもない苦しみを味わった人。そのような人たちは一見その表情に笑顔があっても、心の神髄に刷り込まれた深い悲しみがあるかもしれません。人の命は保証されていないからこそ、自分の心や価値観に忠実になり、頂いた仕事や与えられた環境に真正面から取り組んで日々を大切に過ごしていきたいと私は思っています。

(2021年3月16日)

今週の一冊

「文房具語辞典」高畑正幸著、誠文堂新光社、2020年

かつてイギリスの小学校に通っていたときのこと。久し振りに日本に出張した父がサンリオの文具をお土産に買ってきてくれました。それを学校へ持参すると、クラスメートが大興奮となったのですね。「かわいい!」「どこで買ったの?」「いいなあ、私も欲しい!」とすごい状況でした。当時の私は英語ができず、運動神経もなかったため、ペアワークや体育でのチーム分けの際など、必ずあぶれていました。クラスの中でのお荷物的存在だったのです。ゆえにたった一つの文具だけで周りから関心を集められたのは、私にとって救いでもありました。

本書は文房具デザイナー・高畑正幸氏による一冊です。高畑氏のお名前はこれまで何度も見たことがあります。特に印象的だったのは、かつて仕事でよく立ち寄っていた文房具店のレジ横に置かれていた「Bun2(ブンツウ)」というフリーペーパーでした。内容はすべて文具に関すること。新商品の話や消しゴムはんこ作家のコラム、開発秘話などが満載で、大好きな冊子でした。そこに高畑氏は連載を持っておられたのですね。ただ、あいにくその文具店が閉店になってしまい、最近の私の仕事半径内にも文具店がないため、私自身は本誌からは疎遠状態です。でもこうして氏の専門知識が詰まった一冊にありつけたのは嬉しい限りです。

ページをめくると、あいうえお順に文房具に関するありとあらゆる用語がイラスト付きで紹介されています。いやはや、ここまで文具ボキャブラリーがあったとはオドロキです。高畑氏がいかに文房具を愛しているかが伝わってきます。

あまりにも日常グッズとなっている文房具ですが、こうして一つ一つを味わってみると、自分の知らない世界に触れることができます。辞典ですのでどこから読んでも良し、イラストだけ味わうのももちろんOKです。とにかく楽しめます!

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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