INTERPRETATION

第452回 香り

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「香り」は英語で様々な語があります。fragrance、scentなどは「良い香り」ですが、odorやstenchなどは「不快なニオイ」というニュアンスです。smellは一般的な語ですが、「形容詞を伴わない場合は臭気を表すのが普通」とランダムハウス英和大辞典には出ています。

先日のこと。恒例の朝の散歩中、とあるお宅の前を通りがかりました。ほんの一瞬で通り過ぎてしまったのですが、そこでかいだ香りが、私を一気に幼少期時代へといざなってくれたのです。思い出したのは、中学2年まで暮らしていたロンドン郊外の家でした。

4年間のロンドン滞在中、我が家は2軒の家での生活を体験しました。一軒目の家は交通不便な場所にあり、当時、母は慣れない異国の生活で体調を崩し、父は多忙で帰宅も深夜。私は転入した女子校に馴染めない日々を過ごしていました。編入した10月の終わりのイギリスは、冬に向けて日照時間がどんどん短くなる時期。4時前に学校を後にし、いつまで経っても来ないバスにようやく乗り、次第に夜空へと色が変わる中、一人下車、二人下車して私だけが終点まで乗っていくという下校時の風景でした。

村の小さな商店街でバスを降りると、その後は自宅まで子どもの足で30分。歩道の右側は3車線のバイパスで車が高速で通り過ぎ、左側は広大な公園があります。日がとっぷりと暮れたフェンス向こうの芝生は真っ暗で不気味でした。母はあいにく迎えに来ることができなかったため、私は一人トボトボと家路をめざしたのです。

そんな生活が2年以上続いた後、学校から徒歩3分の所にある賃貸一軒家へとようやく引っ越すことになったのでした。

その家を見つけたのは私でした。

何しろ通学が辛い、母も体調がイマイチ。そうした様々な要素が絡み合い、家の中の雰囲気は子ども心にとって寂しく辛いものでした。ゆえに私は毎週毎週、ローカル紙の不動産特集をひたすら眺め、家探しをしていたのです。

偶然出会ったその家は、家族3人が暮らすにはあまりにも大きすぎました。ベッドルームの数は4つ、バスルームは2つ、お手洗いは3つ。巨大なサンルーム、8人掛けの大きなテーブルがあるダイニングルーム、リビングにも一人がけソファが8脚もありました。車庫は車2台がゆうに止められ、家からガレージまでは大きな庭を縦断するという敷地でした。

父にとっては完全に予算オーバーだったと思います。けれども当時、色々な面で逼迫していた(?)家族のことを思ってくれたのでしょう。よく父は転居の決断をしてくれたと思います。引っ越してから帰国まで2年弱でしたが、私たち親子3人にとって、その家での生活は実に幸せでした。

冒頭で述べた「香り」に話を戻しましょう。

私はその日の朝、地元でウォーキングをしていたとき、その「香り」で、この2軒目のイギリスの家を強烈に思い出したのです。そこのお宅の木の香りなのか、それとも空の中にあふれる見えない空気が周囲の樹木や生活の香りと織り交ざって私を過去に連れて行ってくれたのかはわかりません。

けれども、ほんの一瞬の香りが、人を過去へといざない、幸せな気持ちを呼び起こしてくれるのですよね。忘れていた子ども時代を思い出すことができ、香りのパワーを改めて感じたのでした。

通訳業に携わる私にとって、「香り」ではなく、「ことば」が誰かに感動を与えられればと思います。

(2020年7月21日)

【今週の一冊】

「ビジュアル パンデミック・マップ」サンドラ・ヘンペル著、日経ナショナルジオグラフィック社、2020年

新型コロナウイルスの報道が最初に出たころの私は、「いずれ早い時期には収束するはず」という根拠のない思い込みをしていました。しかし感染はむしろ広がってしまい、誰もが経験したことのない事態に直面しています。そうした中、私たちが知るべきことは歴史だと感じたことから、この本を手にしてみました。

過去を振り返れば、人類は様々な感染症に直面しています。ペストやハンセン病、結核やエボラ出血熱など、本書の目次を見ると実に多くの病に見舞われてきたことが分かります。著者のヘンペル氏は医療ジャーナリストです。

中でも印象的だったのが風刺画や地図、ウイルスの拡大図などがオールカラーで掲載されていることです。たとえば23ページにはインフルエンザにかかったイギリスの俳優チャールズ・キーンを描いた戯画があるのですが、じっくりと見てみると、盥のお湯の中に足を浸している様子や、ナイトキャップをかぶっている姿など、当時の風習がよく描かれています。

一方、アメリカのルーズベルト大統領は1921年にポリオと診断され、車いすで生活をしていました。ワクチンが開発されたのは1955年のことです。2017年の時点でポリオが流行しているのは、アフガニスタン、ナイジェリアとパキスタンのみであることも、私は本書で初めて知りました。

コロナとどのように向き合うべきかを改めて考えさせられた一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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