INTERPRETATION

第499回 風化

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

幼少期というのは、今の私にとっては遥か彼方昔の出来事になっています。年齢を重ねるにつれて、記憶はどんどん奥へと追いやられていくのですよね。たまに久しぶりに会った親戚から「早苗ちゃんは昔○○だったね」と言われても、当の本人は覚えていない、ということも少なくありません。

小学校2年から4年まで過ごしたアムステルダムでは、インターナショナルスクールに通っていましたが、日本人がとても多く、よってムラ社会のような感じでした。母を見ていると、母親(今でいうママ友)同士でも色々とマウンティング(?)があったようで、苦労していた模様です。一方、子どもの世界にも仲間外れやいじめがあり、なかなか辛いものがありました。ボスのような女の子がいて、周囲はその子にどうしても逆らうことができないのです。その子が「次は〇〇ちゃんを仲間外れにしよう」と号令をかけると、部下も従わざるを得ませんでした。そのターゲットとなった一人の女の子は、仲間外れ状態がずいぶん長く続いてしまいました。近所に住んでいて元々仲が良かったので、学校以外ではいつも遊んでいたのですが、ボスがいる前では私も怖かったのです。今にして思うと、勇気のない自分も加担者になってしまったわけですので、いつまでたってもその罪悪感は消えません。

一方、イギリス時代は日本人が私一人だけという現地校に入りました。因果応報とでも言うのでしょうか。今度は私への仲間外れが長いこと続きました。英語が出来ないこと、アジア人は私一人であったこと、当時のイギリス社会がまだ白人メインの状態であったことなど、要素は色々とありました。「語学ができない。だからいじめられるのだ。ならば英語ができるようになってやる!」という悔しさが、私を勉強に駆り立てたのです。「競争心やくやしさ」は勉強において必ずしも「悪」ではない、とその時私は感じました。

さて、通訳の仕事に携わるようになってからずいぶん年月が経ちましたが、いまだかつて「今日はぜーんぶ完璧にできた!」と思えた日は一度もありません。仕事後、疲れゆえに足取りも重くなり、資料の入れたカバンで肩はガチガチ、話し続けて首が回らないほど凝っているという中、電車に乗れば道中は「一人反省会」です。どの単語を落としたか、デリバリーはどうだったか、何が改善できるかなど、あれこれと考えながら家路につくのですね。

それでも不思議なもので、子ども時代の辛い記憶にせよ、仕事で大変だったことにせよ、自分にとってのしんどい思い出は時間の経過とともに風化されていきます。人間に与えられた恩恵は、もしかしたら「忘れること」なのかもしれません。

ところで最近の私は、なぜかやたらと疲労感を覚えるようになっています。理由は色々と考えられるでしょう。20代のころのような踏ん張りがきかない年齢になったこと、仕事や家事などが立て込んでいること、欲張って(?)ついあれこれと少ない時間の中に押し込んでやり遂げようとしてしまう習性も挙げられます。いつ収束するかわからないコロナへの不安、マスクを常時付けているという物理的な息苦しさなど、原因は一つではないのですよね。「以前ならちょっと頑張れば切り抜けられたのに」と思えたとしても、今は通常とは違う状態下にあるのです。よって、必要以上に耐えたり頑張り過ぎたりしては、体が悲鳴をあげてしまいます。

これまでも月日の経過とともに辛い記憶を風化させることはできたのです。今の状況もいずれ時が経てば少しずつ和らいでいき、楽しい出来事が上書きされていくはずです。それまでは自分の体と心を労わり、日々を切り抜けていきたいと思っています。

(2021年7月13日)

【今週の一冊】

“Arcimboldo: Visual Jokes, Natural History, and Still-life Painting” Thomas Dacosta Kaufmann, The University of Chicago Press, 2009

「だまし絵」と聞いて真っ先に思い出すのはオランダの画家エッシャーです。しかし、エッシャーが活躍した時代よりもはるか前の16世紀に、摩訶不思議な絵で人々を魅了したのがイタリアの画家アルチンボルドです。果物や野菜、動物などを組み合わせて人物像を描いたことで知られています。一見、人の横顔に見えるものの、よーく目を凝らしてみると、多様な植物や生き物があります。「寄せ絵」という手法です。

アルチンボルドの作品を初めて見た時、一瞬ギョッとしました。しかし、その一方で「なぜここまで奇想天外な発想を?」という思いとともに、作品に引き込まれるのですね。それがアルチンボルドの魅力です。

本書ではアルチンボルド研究の権威であるプリンストン大学のカウフマン教授が解説をなさっている一冊です。説明は非常に詳細にわたっており、巻末には参考文献や索引も充実。画集としても、学術書としても味わえます。ちなみに教授は2017年に上野の美術館で「アルチンボルド展」が開催された際、講演のため来日されています。

アルチンボルドの絵はどれも細部まで細かく描写されており、画家自身が自然界への興味を抱いていたことが伺えます。私のお気に入りは、”The Librarian”(「司書」)という作品。本を埋め込んだ人物画となっています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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