INTERPRETATION

第590回 止まるときは正々堂々と

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳業というのは、報酬を頂きながら新たな分野を学べる稀有な仕事です。私自身、色々なことに興味があるので、この職業人生で本当に良かったと実感しています。

けれども、「楽あれば苦あり」ということわざ通り何事もそうそう容易にはいきませんよね。通訳業しかり。何しろ限られた準備時間でプロ並みの知識を頭に叩き込む必要があります。お仕事として引き受けた以上、言い訳はできないのです。当日まで単語を暗記し、専門知識を熟知し、日英両言語でスラスラと口から出るようにせねばなりません。「事前準備がものを言う」という意味では音楽家に似ています。ただ、通訳者の場合、単語や知識暗記だけでは太刀打ちできず、当日何が飛び出すかがわからないのがスリリングでもあり、緊張する部分でもあるのです。

これまでよく受けたご質問の中に、

「どのようにしてモチベーションを保っていますか?」
「どうすれば学習意欲が高まりますか?」

というものがあります。相談者ご本人が「なかなかヤル気が出ない」「この学び方で良いのかわからない」という迷いのさなかにおられるのがほとんどです。スランプや先行き不透明というのは当の本人が一番辛いですよね。

ただ、こうした「不調」というのは、人間であれば誰もが経験すると私は思うのです。逆を言えば、「いつも明るくなければいけない」「常に意欲があるのが良い」という風潮が世の中にあるからこそ、そうではない自分に落ち込むのではないでしょうか?

先日、オンラインセミナーで作家の岸田奈美さんの講演会を聞きました。岸田さんは弟さんがダウン症、中学時代にお父様が急逝され、高校時代にはお母様が病に倒れて以後車いす生活になるという境遇で育ちました。お母様の岸田ひろ実さんはTEDトークでその体験を披露されています:
https://youtu.be/9z39oxMj_t8

娘である奈美さんは、そのような環境下で暮らす中、自らの思いをnoteというブログに書くようになり、それが編集者の目にとまり、「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」という本を出されました。その文章からは常に前向きで元気ハツラツ、何事も笑いに変えるパワーがにじみ出ています。オンラインセミナーの奈美さんもそのような雰囲気でした。

けれども講演会終了後、改めて彼女について検索したところ、仕事で落ち込んで出社できなくなったエピソードを知りました。今までできていたことができなくなり、眠り続けたそうです。本サイト「ハイキャリア」で連載中の翻訳家・寺田真理子さんも、同様の経験をしておられます。つまり、人の心は機械でない以上、気持ちが下がったりヤル気が全く生じなかったりということは、誰にでも起こりうることなのです。

そのような時は、「できない自分」を責めても余計辛くなります。自分を守れる最後の砦は自分なのです。だからこそ、そうした状況に陥ったら自分を許し、自分を認め、「その瞬間」にできること・やりたいことをするのが一番のセラピーだと私は考えます。そうするうちに自分の中からきっかけが生まれて、また歩み始めると思うのです。

奈美さんは、ダウン症の弟さんが奈美さんを外に連れ出してくれたおかげで立ち直ったそうです。寺田さんは、本が自分を救ってくれたと「心と体がラクになる読書セラピー」で書いておられます。

成功体験や自己啓発書が多い時代に生きる私たちですが、止まるときは正々堂々と止まって良いと私は思っています。

(2023年6月20日)

【今週の一冊】

「英国女王が伝授する 70歳からの品格」(多賀幹子著、KADOKAWA、2023年)

昨年秋に崩御されたイギリスのエリザベス女王。本書はイギリス王室に詳しい多賀幹子さんが女王の名言に解説を加えた一冊です。女王の数々のファッションがカラーで紹介されており、読みごたえがあります。

イギリス王室も「一家族」であるととらえると、他の家族同様、様々な課題や浮き沈みもあります。そうしたことを正直に発信してきたのがエリザベス女王でした。そのような人間味あふれる姿に人々は尊敬の念を抱いたのだと思います。

女王がなぜ愛されたのか、その要素は色々あるでしょう。最期の最期まで公務をおこなった、人々の幸せを願ったなどなど。でも、私が印象的に思ったのは以下の発言です:

“I do not give you laws or administer justice but I can do something else …
I can give my heart and my devotion …”
「私は、法律を作ることも 裁判を行うこともできませんが、
他にできることがあります。
それは、私の心と愛を捧げることです」 (p17)

つまり、女王はイギリス国民にとって「決して自分を見捨てない母親のような存在」だったのでしょう。何かあっても必ずそこにおられる。その安心感はとても大きいと思います。

ちなみに女王は忙しい日々であっても毎晩必ず日記をつけておられたそうです。女王にとってそれは「精神的安定」でもあったと多賀氏は綴ります。誰にも見せない日記。そこに苦しみも喜びもすべて吐露したことが女王の生きる力につながっていたのかもしれません。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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