INTERPRETATION

第620回 必ず次がある!

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

在宅ワークの朝、私はウォーキングに出かけます。通訳者は何と言っても体力勝負。歩くことで丈夫な体を維持したいのですね。朝の情報番組をスマホで聴きながら、近所の光景を堪能しています。

先日のこと。近所の小学校前を通りがかると、体育の授業をしているのが目に入りました。ハードル走です。合図とともに一人ずつ跳び越える練習をしていました。

その時、ふと自分の幼少期を思い出したのです。イギリスの小学校に転入したばかりのころ。10歳ぐらいでした。

当時の私は体育が大の苦手。走るのは遅いし、球技もダメ。カナヅチだったので夏の水泳は恐怖。とにかく体育の授業がある日は朝から憂鬱でした。そんなある日、ハードル走の授業で一人一人が跳ぶ際、不器用な私は「ハードルを倒す・避ける・つまづく」のすべてを衆人環視の中で華麗に(?)披露していました。当時の私は英語もできず、「ああ、こうして私はどんどんこのクラスの中で浮いていくのだろうなあ」という絶望感に襲われましたね。家の方も居心地が良くなかったため、学校を休むという選択肢もありませんでした。

それからしばらくたったとき、生物の授業でちょっとした出来事がありました。

その日のレッスンは「捕鯨およびイルカ問題」。当時の西洋諸国では「クジラやイルカを捕るのは可愛そう」という雰囲気がありました。授業の中で先生は、こう述べたのです:

「捕鯨をしている国、それは日本です。」

この時、先生の”Japan”という単語だけは今でも強烈に覚えています。何しろ「ジャパン!」の一言の直後に、前に座っていたイギリス人の仲良し女子が振り返るや私にこう言ったのです:

“Shame on you!”

実はその当時、Shame on youがどういう意味なのか私は知りませんでした。ただ、「世界の中で日本という国が、何かマズイことをしている」ということだけは、クラスメートたちの視線からわかりました。その瞬間は私にとって悲しく、そして実に悔しいものだったのです。

私は帰宅後、「なぜ日本が捕鯨をせねばいけないのか」を自分なりに考えて英文エッセイにまとめました。実につたない英語でした。でも、「日本には日本なりの事情がある。だからそれをわかってほしい」という思いは込めました。「このままクラスメートに日本という国を誤解されたままではいけない。ヒドイ国だと思われたら、私もそんな風に見られてしまう」と考えると、それは現地校における私の死活問題につながったのです。

数日後、レポートが返却されました。先生は、私の作文にA+に相当する最高評価を付けてくださいました。

驚きました。と同時に、「こんな幼稚な英語で書いたのに、先生は私を信じて下さった」という思いは、私の自信へとつながりました。その日を境に私は英語の勉強にまじめに取り組むようになったのです。

体育苦手意識はその後も続きました。しかし、肩身の狭い学校生活は少しずつ緩和されていきました。あの日を境に私は、「大変なことも必ず終わりがある。その先には楽しい日々がある」という実体験をしたのですね。と同時に、相手が子どもであっても信じることこそが大人の大切な責任だとも感じたのでした。

生きていれば山あり谷ありです。それがデフォルトだと思います。だからこそ、たとえ今しんどくても、「きっとその先には明るい日々が待っている」と信じて、これからも歩み続けたいと思っています。

(2024年2月6日)

【今週の一冊】

「地図で読む戦争の時代」今尾恵介著、白水社、2011年

子どものころから地図を見るのが好きな私にとって、地図関連の本には自然と手が伸びます。思い起こせば、地図に最初に魅了されたのが小学校2年生のとき。まだカーナビも無い時代でした。当時私は父の転勤でオランダに暮らしていたのですが、母は地図がまったく解読できず、代わりに私が後部座席から「人間カーナビ」として案内していたのです。以来、普通の地図はもちろん、路線図や古地図、はたまた地図を描いたグッズなどに注目しています。

今回ご紹介するのは、地図研究家・今尾恵介氏の一冊。私が読んだのは2011年発行のものですが、昨年冬には増補新版が出ています。本書のテーマは、地図を通して戦争を改めてとらえる、というもの。地図は記号や図の表出にすぎませんが、実はその背後に人々や社会の生活があります。戦争という暗い時代に、地図は何を表そうとしていたのかが本書を通じて紐解くことができます。

たとえば、軍事関連の拠点などは戦争中、あえて曖昧に描かれていました。また、空襲の被害拡大を防ぐため、不自然な幅広道路の存在を地図から確認できます。これは防火帯として作られたものであり、強制的に立ち退きをさせられて道路になってしまったことが想像できるのです。

戦後、焼け野原となった東京の一角には、占領軍の住宅が地図上に表されています。周囲の住宅密集地に対して、米軍基地内の住宅は大きくて点在しているのがわかります。これだけでも、戦勝国・敗戦国の違いがわかるのです。戦争というのは、単に「戦時中」のことだけではありません。戦いが終わっても長きにわたり、様々な影響が一般市民には続くのです。

練馬区の光が丘や現在の東京ドームなどにも、かつては軍事拠点がありました。このような過去を知ることで、改めて平和について考えさせられる、貴重な一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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