INTERPRETATION

第250回 手書きの礼状から感じたこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳学校で指導をしていてよく受ける相談があります。それは「どのようにメモを取るか」「どうすればすべてきちんと拾えるか」です。

メモ取りに関しては正直なところ、私も何か良い秘訣があったら知りたいところです。と言いますのもノート・テイキングにおける絶対的正解がないからです。もっとも、通訳という行為自体、「これが正解でこれは間違い」とは言い切れない世界のようにも思います。極端な話、100人通訳者がいれば100通りの訳語があっても良いからです。要は話し手が伝えたいメッセージを最大限くみ取り、それを最も効果的に聴衆に理解していただくための言語変換をするのが私たちの最大使命ということになります。

その「最も効果的」という基準も実は難しいですよね。私自身、最近興味深い経験をしましたので、そのことに改めて気づかされました。その出来事とは次のようなものでした。

私は毎年年末になると、ささやかながらNGOに寄付をしています。CNNの放送通訳をしていると、日本という国に暮らせる偶然の恩恵が非常にありがたく思えるからです。確かに日本国内にも課題はたくさんあります。けれども世界を見渡せば紛争や経済的混乱、社会インフラの未整備などが見られる国がたくさんあります。そうした状況と比べれば、日本で安心して生きていけるというのは大きな恵みだと思うのです。その感謝の気持ちを込めての寄付でもあります。

つい最近のこと。そうした援助団体の一つからダイレクトメールが届きました。あるプロジェクトが緊急で実施されており、それへの寄付金を募る内容でした。何かお役に立てるかもという思いでDMを開封し、後でじっくり見るためにファイルに入れておきました。その団体から電話があったのは10日後のことでした。

スタッフの方はとても丁寧で、日頃の援助に感謝する旨をおっしゃっていました。ただ、その日あいにく私は仕事に出る直前だったのです。「お時間よろしいでしょうか?」と言われましたので、「出かける前なので1、2分でしたら」と私は答えました。

ところが前置きから始まり、「新たな寄付をお願いしたい」という本題に入るまで、結構手間取ってしまったのですね。おそらく「電話口で話す内容マニュアル」が先方にはあり、その通りにスタッフの方はおっしゃっていたのでしょう。ですので、そのスタッフさんに非があるわけではありません。ただ、何しろタイミングが悪かったと思います。

いよいよ時間切れという段階で、申し訳なく思いつつ私はこうお伝えしました。「すみません、今から仕事に出かけますので、先日頂いたダイレクトメールを私の方で拝見して、何かありましたらこちらから改めてご連絡したいのですがよろしいでしょうか?」と。これでようやく電話でのやり取りが終わりました。

そういえば、別件で次のような経験をしたことがあります。まだ会社員の頃だったのですが、とある企画を先方の会社と詰めていました。うまく行きそうに見えたのですが、最終的には先方の上司からゴーサインが出ず、立ち消えになることが決まったのです。その時、先方の担当者はお詫びの品とお手紙を送ってきてくださいました。わざわざ労をとってまでそうしてくださったことにとてもうれしく思ったのですが、開封して少し違和感を覚えてしまったのですね。

と言いますのも、お詫びの品に添えられた手紙はワープロ打ちで数ページにわたっており、企画がボツになった理由が延々と述べられていたのです。私は社会人になりたての頃、お詫びやお願いに関して先輩から次のように教わっていました。「お願いやお詫びは自分の誠意を見せるものである。だからできれば直接会って伝えること。会うことが難しいなら電話で自分の声で伝えること。それも無理なら手書きの手紙にすること」というものです。ワープロ打ちの手紙やメールというのは、順位としては最下位にあると言われたのです。

お願いやお詫びに関してそのようなことを考えていた数日後、今度はある雑誌社から小包が届きました。私が寄稿した記事の掲載誌が中には入っていたのですね。雑誌の中には封筒が挟まっており、きちんとあて名書きがなされていました。挟んであった個所は私の掲載文のページで、そこには付箋紙も貼られていたのです。封筒を開けると、縦書きの便箋に丁寧な字でお礼文が綴られていました。

その雑誌社はコンセプトのしっかりした媒体物を作っており、世の中の流行が動いてもぶれることなく、その哲学を大事にしながら発行を続けています。栄枯盛衰の激しいマスコミ業界において、その姿勢を維持するだけでも大変なことでしょう。けれども今回のお礼状1枚から、その会社の編集者たちが自らの仕事に誇りを持ち、業務に勤しんでいる様子が想像できたのです。こうした会社のお役に立ちたい、この企業の応援をしたいとそのとき強く思ったのでした。

相手に何かを伝える際、何が最も効果的かは悩むところです。伝える側と受け手の温度差も当然あることでしょう。けれどもメッセージを発する側が、受ける側の気持ちを徹底的に考え、自分がどうすべきかをしっかりと熟慮することが、実は最大の正解ではないかと私は考えます。

通訳行為も同じです。「自分がすべて拾えて訳せたからOK」ではなく、どうすれば聴衆に最もよく理解していただけるか。お客様の立場に立った仕事ぶりが評価の最大ポイントだと私は信じています。

(2016年3月7日)

【今週の一冊】

「考えない台所」 高木ゑみ著、サンクチュアリ出版、2015

私の読書形態はどうやらムラがあるようです。古典に凝るとそればかりを読むようになり、ビジネス本に関心が出れば書店でもそのコーナーばかりを覗きます。昨年秋はもっぱら文庫本にこだわり、文庫本の棚だけを眺めては買っていました。いわゆるマイブームですよね。

そんな状態が続いていたのですが、なぜか今年に入ってから読書量が落ちました。取り立てて理由があるわけではありません。ただ、手軽に読める自己啓発本は、何となく急き立てられるようで敬遠するようになり、食指が動きませんでした。かと言って文庫本コーナーも新しい著者が多く、昔の作家の本はなかなかありません。そのような理由から「本を読まない期間」が続いていました。

通訳の仕事をする以上、広く浅く、いえ、できれば広く「深く」物事を知ることは大切だと思います。本も「常に読んでいる状態」であるのが理想です。出かけるときも読みかけの仕事関連本をカバンに入れ、趣味の本も一緒に入れてメリハリをつけた読書をこれまではしてきました。それなのに、この「活字吸収量激減」と来たわけですので、我ながら不思議です。

今回ご紹介する一冊は、そんな記念すべき(?)「読書復活第一号」と言えるかもしれません。「考えない台所」というタイトルに惹かれて買いました。書店の棚に平積みされており、何か訴えるものを私は感じたのです。オビには「一日中、ずっと料理のことを考えていませんか?」という問いかけ文があり、私の心を揺さぶりました。と言うのもその答えがまさに「イエス」だったからです。私の場合、朝食の片づけをしながら夕食の献立を考えており、仕事に向かう際もメニューのことを思い描いてばかりいました。帰り道には野菜の切り方やその順序までシミュレーションしていたほどだったのです。

本書はそんな「頭の中は一日中料理のことだけ」という人向けに書かれたものです。献立の立て方や台所に何をどう置くか、整理収納に至るまで詳しく説明されています。著者の高木さんはシンク回りやコンロ回りにモノを一切置かないそうで、私も同じ考えだったことから、とても共感を抱きました。

中でも参考になったのは、調理の際の手順です。料理を始める前に、切った食材を入れる容器を何個も出しておくことや、味見用のスプーンを10本ぐらいセットしておくことなど、私には目からウロコでした。実際そのようにしてみると、台所内での動線を大幅に省略できますので、動きに無駄がなくなったのですね。必要なものをあらかじめ出しておき、右往左往しないことが時短につながることを改めて感じました。

もう一つ高木さんが紹介していたエピソードでお寿司屋さんの話がありました。板前さんはお寿司を握ってはまな板を拭き、次の食材を出してからも拭いてと頻繁に目の前を拭いていますよね。これも私には参考になりました。なぜなら、私の場合、電子レンジで温めたものを作業台に出そうとしたら台が濡れているということが頻繁にあったのです。これではせっかく温めたお皿も濡れて冷めてしまいます。けれども濡れたらすぐふきんで拭くという習慣をつけておけば、何かを置く際にもすぐに堂々と(?)置けますよね。

こうした小さな、そして大切なヒントが満載の一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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