INTERPRETATION

第355回 どこまで準備する?

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

5月19日土曜日。イギリス王室ヘンリー王子と女優メーガン・マークルさんの結婚式が執り行われました。日本でも一部のテレビ局が生中継をしていました。数年前のウィリアム王子ご成婚以来、久しぶりの慶事です。このたび私も同時通訳の機会をいただき、とある放送局で業務に携わりました。

エージェントから依頼をいただいたのは数週間前です。イギリスから送電される映像を見つつ、状況や場面に応じて生で同時通訳をするという内容でした。準備時間は1か月を切っています。身が引き締まりました。

このようなご依頼をいただいた際、まず私が行うのは、ノートに「やるべきこと」を徹底的に書き出すことです。最近はマインドマップを活用しており、まずはノートの中央に「ヘンリー王子結婚式」と書きました。そこからどんどん線を引き、リサーチ項目を列記していくのです。「プロフィール」「家系図」「現在の活動」などをヘンリー王子メーガンさん双方で書き出し、さらに「ウィリアム王子結婚式」「ダイアナ妃結婚式」「衣装」「英国聖公会結婚式」「聖書」という具合に広げていきます。これ以上項目はないのではというぐらい、徹底的に書き出します。

このようにして列記したら、次はひたすら下調べです。私の場合、母語は日本語ですので、情報収集は日本語の方が断然早くなります。同じキリスト教でもプロテスタントやカトリックとイギリスの聖公会は異なりますので、宗教用語も頭に叩き込まねばなりません。世界の結婚式を紹介した図鑑を入手したところ、聖公会の式の流れや聖書の引用個所も出ていました。そこで今度は該当する聖書のページをコピーします。ただし、聖書の場合は、そのまま式で聖職者が読むと思われますので、英語聖書と日本語聖書の両方をコピーし、見やすいようにノートに貼り付けます。

さらにウィリアム王子ご成婚の式次第をネットで検索し、印刷します。そこに書かれている聖職者や登壇者の名前に正式な日本語名を書き込みます。日本ですでに報道されている場合、カタカナ表記も決まっていることがあるからです。さらに賛美歌の邦題も調べ、訳文もウェブで検索です。

ヘンリー王子結婚式自体の同時通訳とは言え、通訳現場では何が飛び出すかわかりません。ゆえに派生して調べるべきことは山ほどあります。ウェディングドレスや入退場時の音楽、聖歌隊の指揮者名なども調べた方が安心です。しかも今回はアメリカからカリー大主教がわざわざ渡英されるとのこと。カリー氏の動画を見ることで、その話し方やロジックの展開にも慣れる必要があるのですね。

あちらこちらと手を広げながら準備をしていると、あっという間に当日になります。しかも19日土曜日の朝にはイギリス王室が具体的な式次第を発表しました。いよいよ本番まであと数時間です。ここまで来れば、あとは式次第そのものを集中的に読み込み、該当する聖書の箇所や引用などを調べるだけです。もう一つ大事なのは、日本語訳を見つけたら必ず事前に音読すること。読んでみると案外読めない漢字があったり、発音アクセントで戸惑う部分があったりするからです。たとえば私の場合、「贖罪」という単語の強弱に戸惑いました。そのような時は、すぐに電子辞書に搭載されている「NHK日本語発音アクセント辞典」で確認です。

通訳現場というのはハプニングがつきものです。今回も当初の予定より式が早く進行したり、カリー氏の演説がアドリブになったりと、通訳しながらハラハラドキドキすることがたくさんありました。

通訳の準備には終わりがありません。どこまで備えてもエンドレスです。けれども、今回私は英王室メンバーのご成婚という滅多にない機会に間接的ながらも触れることができました。本当に仕事冥利に尽きると感謝しています。通訳本番では正確さを意識し、場の雰囲気を伝えることに専念しつつ、私自身がお二人の幸せに包まれたご成婚を堪能したのでした。

(2018年5月28日)

【今週の一冊】

「ブリューゲルへの招待」 朝日新聞出版編、朝日新聞出版、2017年

私が初めてブリューゲルの作品を実際に見たのは、オーストリアに短期留学していた大学3年生の夏休みでした。ウィーン美術史美術館には「バベルの塔」「農民の婚宴」など複数が所蔵されているのです。中でも私のお気に入りは「子どもの遊戯」。90種類以上の子どもの遊びがそこには描かれています。絵本「ウォーリーを探せ」や安野光雅さんの「旅の絵本」を思い起こさせるような緻密さが好きなのですね。

今回ご紹介するのは、昨年春に東京都美術館で開催された美術展と連動して発行された一冊です。細かいディテールまで描かれたブリューゲルの作品をどのように鑑賞すべきか。この本を読めばそのポイントがわかるようになっています。

たとえば「農民の婚宴」には料理も描かれていますが、解説によれば、それはオランダの伝統的なシチュー「ハシェイ」と考えられるそうです。一方、「バベルの塔」を今の日本に出現させると、東京スカイツリーの634メートルに匹敵するのだそうです。なかなかの圧巻です。

ブリューゲルの作品には聖書の題材も多く登場します。たとえば「サウルの自害」は旧約聖書の「サムエル記」から、「東方三博士の礼拝」も「マタイ伝」から来ています。絵画の解説をきっかけに、聖書を紐解いてみる。できれば英語と日本語を照らし合わせながら聖書を読んでみると、大いに勉強になります。お勧めです。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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