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窓の外のサブライム

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

先日、箱根に短い旅行をしました。

日本国内を旅行するといつも感じるのですが、定番の観光地には多くの資本が流れこみ、目的地までの交通機関は整えられ、案内表示や設備、見るべき物の詳細な説明からお土産屋さんに至るまで、行き届いたサービスが用意されています。

便利といえば便利なのですが、その反面、そうしたサービスに誘われて訪れた多くの人が現地の「映えスポット」の画像を大量にデジタル空間にアップロードしているため、観光旅行で本当に新鮮な体験をするのが困難なのも事実。

実際のところ、ネットで調べて楽しみにしていた観光スポットを訪れたものの、既に見たことのある光景を前に物足りなさを感じた、という経験をした方も少なくないでしょう。

その意味で、元箱根港のそばにある成川美術館は興味深いものでした。

2階にある展望ラウンジから眺める芦ノ湖。湖面の澄み切った青と、山の木々の深緑。それらに挟まれた箱根神社の鳥居から放たれる鮮烈な一点の朱色。湖を囲む木々の向こうには雲一つない青空を背にそびえたつ富士山。その光景は綺麗というよりむしろ、綺麗すぎるというべきものでした。

同時に、私は少なからず違和感を覚えました。

展望ラウンジの巨大なガラス窓が絵画の額縁のように窓の外の光景を切り取り、実物の芦ノ湖と富士山をそのまま使った絵画を成立させていたからかもしれません。そう、現実にフレームを付けることで現実をそのまま絵画にした状態。私たちが「映えスポット」を現実から選び取るまでもなく、現実のすべてがそのまま映像へと変換された状態。映像が現実を飲み込む世界。Google Earthが地球上のすべての路地をサイバー空間にアーカイブするように。

18世紀にドイツ観念論を打ち立てた哲学者イマヌエル・カントは「美(beauty)」の概念を枠組みのあるものとして説明しています。美とは調和。ある種の枠を持ち、枠の内部で調和しているもの。美術館の窓枠に捕らえられた芦ノ湖と富士山の景色のように。

そして、美とは対照的なものとしてカントは「崇高(the sublime)」の概念を提出します。崇高なものとは私たちの想像の枠組みをはるかに超えるもの。枠組みを超え、枠組みを破壊し、私たちの存在の限界を感じさせ、私たちを不安にさせ、恐怖を与えるもの。例えば巨大な雪山の全貌を俯瞰したときの光景。火山の噴火口からマグマが吹き出す様子。

けれども、恐怖を感じるだけでは「崇高」の概念にはたどり着きません。恐怖を感じながらも、恐怖を感じる自分をどこか安全な場所から見下ろす自分がいる、という状態。例えば、窓の外に広がる自然の脅威に怯えながらも、安全な美術館のラウンジで心地よいクッションの椅子に座っているような。

もしも私が美術館から眺めたものがこちらの命を脅かすほどの自然の脅威に満ちた光景だったら、私はそこに「崇高」を見たのかもしれません。

人が旅をする理由は様々ですが、かつて90年代の終わり頃に「自分探しの旅」が流行った背景にはこの「崇高」の概念が働いていたのではないでしょうか。日常から離れ、自分の理解の枠組みを外し、自分の存在の小ささに気づき、同時にその小さな存在を見下ろす視点を掴むことで肩の力が抜け、自分が浄化される。

そこで見つけるものは、今となっては言うことに恥ずかしさすら覚える「本当の自分」などではなく、バブル崩壊後に人々が求めていた「癒し」でもなく、ちっぽけな存在でありながらもそのちっぽけさを見下ろすこともできるという、人間のもつ根源的な矛盾そのものだったのかもしれません。

矛盾に向き合う瞬間から、クリティカルな思考が開かれます。カントが「崇高」を語った本のタイトルはまさに「The Critique of Judgment(判断力批判)」。彼の哲学自体がcritical philosophy(批判哲学=クリティカルな哲学)と呼ばれます。

旅行先に限らず、日常生活のあらゆる場面が「映えスポット」の美しい映像に変換されてもおかしくない世界の中で、クリティカルな瞬間にこそ「いいね」を押したくなるのは私だけでしょうか。

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<今日のことば>

「インスタ映えする」にはinstagrammableやinstagenicという新しい単語が使われているようです。instagenicはinstagramとphotogenicを組み合わせたものですね。

「自然の脅威」はnatural threats、「精神の浄化」はpurification of the mindと訳されます。

哲学で議論されるsublimityやthe sublimeは「崇高」と訳されますが、一般的には「崇高な」はnoble、lofty、grandなどの英語に訳されることが多いです。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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