INTERPRETATION

第229回 売らない。だから買う

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

書店に出かけると最近はビジネス本が目立つところに置かれています。プレゼンテーションに関するハウツー本、発声法、時間管理術、手帳の使い方、セールストークに片づけ術など、ヒントとなるトピックが目白押しです。「どのように対処すれば良いのかわからない」という方々にとって、こうした書籍はアイデア満載です。私も困ったときはこのような本からやり方を取り入れては、自分の生活スタイルに役立てています。

最近注目するのは、営業に関する書籍です。さほどたくさん読んだわけではないのですが、日経新聞の広告欄にもそうした本がよく紹介されています。「営業成績がゼロだったものの、○○という方法をやってみてノルマを突破した」「飛び込み営業が苦手だった著者が、話し方を変えただけでトップセールスパーソンに!」といったキャッチコピーが並びます。

「モノやサービスを売る」というのは簡単なようで一筋縄ではいきません。需要と供給がマッチして初めて売買は成立するからです。「すでにお腹いっぱい」という消費者にどれほど巧みなトークを展開しても、「要らないものは要らない」となるでしょう。逆に買い手がどれほど欲しいと思っても、品切れやスタッフ不足ということになれば、モノは手に入りませんし、サービスにありつくこともできません。数年前にスイーツショップの店頭で見られた大行列などは、まさに需要と供給が均衡を失った状態です。

私はモノやサービスを手に入れる際、売り手側に対して以下の3つを基準として抱いています。

一つ目は「必要以上に売り込んでこないこと」。

こちらが「今は欲しくない」という意思表明をしても、しつこく売り込んで来れば辟易してしまいますよね。「今は結構です」と伝えた際に潔くそこでセールスを終わらせてくれれば、嫌な思いもせずに済みます。

2点目は「ギラギラしていないこと」。

どれほど売り手側が自社商品やサービスに自信や愛着を持っていても、それを一方的に消費者へ押し付けることは単なる販売側の自己満足に終わってしまいます。「売らんかな」というギラギラ感がなく、会話もサッパリしているスタッフの方がかえって信頼できます。

そして最後は「こちらの心境を理解していること」。

買い手側が本音の部分で何を考え、どういったことを望んでいるかまで読み取ろうとしてくれる販売者は消費者の立場に立てる人です。「今は買うつもりがなくても、もしかしたらまたお店にいらっしゃるかもしれない」「今日は下見であって、後日本格的に購入するお客様だろう」という部分まで読み取れるかどうかがカギを握ります。

こうしたことを踏まえた上で接してくださる販売員こそ信頼できるというのが私の考えです。

この基準を書きながら、思い出したことがあります。それは我が家が長年お世話になっている近所の病院の先生です。この病院は「必要以上に治療をしないこと」を方針として掲げています。医学の素人である患者を相手にした場合、過剰に治療をしようと思えばすることもできるでしょう。病への不安を抱く患者であれば、高額だったり複雑だったりする治療も「治すため」と思えば受け入れるかもしれません。けれどもこの病院はその正反対なのですね。「様子を見て悪くなるようなら処置しましょう」というスタンスです。ですので、院長先生が「今回は○○の処置が必要です」とおっしゃるときは、これこそ本当に大切な治療なのだととらえ、迷わずお願いしています。信頼関係があるからこそ、このように思えます。

もう一つのエピソードは、知人に頼まれてスポーツクラブの有料プログラムの説明を一緒に聞きに行ったときです。知人はダイエット面での目標や現在のライフスタイル、通える頻度などを一通りスタッフの方に説明しました。そして一番高額のプログラムについて尋ねたのです。しかしそのスタッフはあえてそのプログラムは勧めず、別のお手頃価格のプログラムを紹介してきたのでした。もしそのプログラムを契約できればお店にとって収入になったはずです。それなのにあえて勧めず、本人に最適なものを紹介してくださったのですね。こうしたスタッフこそ信頼できると思いました。

「モノ」は消費者側が見たり触ったりすることで購入の有無を決めることができます。しかし「人」を媒介とする「サービス」の場合、買い手側は素人というケースがほとんどでしょう。「自分一人ではできないことに対してお金を払い、サービスを享受する」という図式だからです。消費者側はサービス提供者と比べて知識も乏しく、不安だらけの心境下にあるかもしれません。病院の患者もそうですし、自分にとって専門分野外のサービスなどがそれに相当します。

そうした消費者を前に、不安を逆手に取るようなことをせず、それどころかその正反対の販売態度を貫く人こそ真の売り手であり信頼できる、と私は考えます。あえて「売らない」人であるからこそ、時が来たときにはその人から「買いたい」と思うのです。

(2015年9月28日)

【今週の一冊】

「日本初の個人救急病院院長が診断!救急で死ぬ人、命拾いする人」上原淳著、マガジンハウス、2014年

先週の「ひよこたちへ」で「アンケートには『ですます調』で答える」と書きました。そこでふと自分の「今週の一冊」コーナーを読み返した際、『である調』なのは統一性がないのでは」と思ったのです。ですので、今週からは書籍紹介の方も『ですます調』にしていきますね。

さて、今回ご紹介するのは救急病院に関する一冊です。実は先日、家族が救急車を利用することになり、私も付き添いで同乗しました。幸い大きな病気やケガではなかったので本人は今、至って元気です。当時救急車を呼ぶことにはかなり躊躇したのですが、事が起きたのが金曜日の夜で週末には病院もやっていないことがわかっていましたので、どうしても金曜日中に処置が必要と考えた上でのことでした。

このたび救命士さんや消防隊員さんたちのお仕事を間近に見てみて、それがいかに大変であるかを改めて感じました。出動要請というのは昼夜問わずにあるわけですし、雨や雪に台風などあらゆる状況下でもプロとしての任務を遂行せねばなりません。空調の効いた同時通訳ブースで仕事をしている私から見ると、本当に頭が下がります。

本書を選んだのも、そうした隊員さんたちや救急病院で医療に携わる方々の業務についてより深く知りたいと思ったからでした。これまであまり大きな病気などに見舞われなかった私にとって、本書に書かれているエピソードは実に考えさせられる内容ばかりです。よくマスコミでは「救急車のたらい回し」などとネガティブな見出しが見受けられますが、なぜそのような現象になってしまうのか、構造的な理由も上原氏の文章から理解できました。

医療提供側からの立場を知ることはもちろんのこと、医療を受ける側としてどのような態度をとるべきかも本書にはつづられています。消防隊員も救急隊員も病院の医師も「心」を持った一人の人間です。何よりも大切なのは、そうしたサービスを受ける私たち自身が、相手を尊重することだと私は感じました。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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