TRANSLATION

第263回 出版翻訳家インタビュー~越前敏弥さん 後編

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

第262回に引き続き、出版翻訳家の越前敏弥さんから『オリンピア』についてお話を伺います。

寺田:『オリンピア』を訳し進めるオンライン勉強会があったそうですが、どんなクラスなのでしょう? 翻訳クラスの受講者の方々は、『オリンピア』をすべて翻訳されたのですか。

越前:30人から40人のクラスで、受講生は1ヵ月に実質15ページから20ページ程度を訳してきます。普段の翻訳講座では、課題として提出されるのは1ページ程度ですから、それと比べるとかなりハードなものです。しかも『オリンピア』の原書は、すごく難しい作品ですし。その訳文を講座の3日前に提出してもらいます。受講生全員が提出するわけではありませんが、半分くらいは毎回出してきました。これを半年続けたので、毎回提出していた十数名は、実質上『オリンピア』を全部自分で翻訳しています。ものすごく力はついたと思いますよ。

寺田:受講者から提出された訳文には、すべて目を通されるのですか。

越前:時間があれば全部に目を通すこともありますが、大体はポイントごとに見ていきます。自分が迷っているところを中心に見るようにしました。意見が割れているところがあれば、そこだけていねいに見るとか。そのうちに自分の間違いに気づくこともありました。間違いとまで言い切れなくても、2通り、あるいは3通り解釈があり得るとわかって、それをきっかけに考えて、他の箇所についてもわかってくるという具合に、こちらの読みも深まっていきました。

寺田:具体的にどのようにクラスを進めてこられたのか教えてください。

越前:具体的なやり方としては、事前に質問掲示板をつくっておくんです。期限を決めて質問を掲示板に書き込んでもらい、みんなでその質問を共有します。そこまでは通常のオンライン講座でもやっているんですが、『オリンピア』の講座では、それをもっと徹底してやったんです。講座の3日前までに訳文を提出してもらい、質問も提出してもらいます。その質問の答えを私が書き込んで、私の訳文を渡します。その訳文を見たうえで、さらに質問がある人には再度質問を出してもらうようにしました。普段は1回のやり取りのところを、2回やったんです。意見が分かれるところがものすごく多く、私自身も100パーセント自信があったわけではないので、やり取りを充実させていくために2回やりました。

寺田:受講生のみなさんも、ついていくのが大変だったのではと思います。

越前:相当大変だったと思いますよ。

寺田:受講生というのは、すでに翻訳書を出していらっしゃる方々ですか。

越前:すでに出している人も、そうでない人もいますが、それなりにある程度長くやっている人とか、しっかり調べてくる人が多かったですね。途中で何人も脱落したので、最後までやりきった人は全体の3分の1くらいだと思いますが、よくやったと思います。コロナの時期だったからやれたのかもしれませんが。

寺田:そもそも個人的な勉強会に30人から40人規模の受講生がいたことに驚きました。

越前:朝日カルチャーセンターの講座のほうに、全教室合わせて70人から80人くらいいるんですよ。その一部だったり、他で募ったりしたのもありますが、それにしても結構多いですよ。こんな作品をよくがんばったと思います。

寺田:みなさんにとっても、やはり難しい作品だったのでしょうか。

越前:ええ、もちろんそうです。もうボロボロになって、それでも出してくる人というのはいて。やはり、たくさんやることで、わかってくることがあるんですよね。『オリンピア』の場合、前のほうと後のほうでつながっている話が色々ありますから、たくさんやることで理解できていくんです。読むだけではなく、訳すところまでやらないと気づかないことがたくさんあります。シンボルがあちこちにちりばめられていたり、伏線があちこちにあるのが回収されていたり。断片的にやっただけでは理解できないままで終わりますが、やりきった人は、「ああ、最初に書いてあったのはこういうことだったのか」とわかって、それが自信になっていくと思うんです。

寺田:読めていない部分がたくさんあるだろうなと感じています。全体の構造があって、その中に細部構造が色々とあるけれど、それは3回か4回読まないとまだまだ気づかないな、と思いながら再読しています。

越前:そうなんですよ。私自身も、勉強会でわかったこともあるし、さらにゲラになって編集者から指摘されてわかったこともあれば、本になってから読んで、「あ、これはひょっとしてこういうことなのか」と後になってわかったこともあるくらいです。まだ今の時点でわかっていないことも多分あるんでしょうね。たとえば、登場人物のルビーが鼻歌でビージーズの曲を歌うシーンが中盤にあります。ただそれだけのシーンなので何ということもなく通り過ぎていたんですが、これは多分「ステイン・アライヴ」を歌っているのではないかと編集者が調べて指摘してくれました。ただの鼻歌だと思って読み流していたのが、「ステイン・アライヴ」だとなると、既読の人ならわかるでしょうけど、すごく深い意味が出てきます。そういうことがあちこちにありました。まだきっとあると思いますから、読者の方からそういう指摘が出てくるのを期待しています。

寺田:ある意味ミステリですね。仕掛けがいっぱいちりばめられているという。

越前:そうなんですよ。

寺田:ここからは、文芸翻訳の将来についてお伺いします。AIの進化によって翻訳家の仕事も変わってきていますが、翻訳の中でも文芸翻訳は最後まで人の手がける仕事として残る分野ではないかと思います。それでも、たとえば、過去の越前さんの作品をすべて学習させて「越前敏弥風の翻訳」にすることも可能になるのではないかと考えています。これまでお話を伺っていて、新しいことに積極的に取り組まれているご様子からすると、「過去の自分を下訳として使うことができるなら、さらに翻訳のクオリティを高められる」と、AIの進化はむしろ前向きに捉えていらっしゃるのでしょうか。

越前:これはまだやっていないんですが、やってみようかなと思っているところなんです。今はまだChatGPTの無料版をつまみ食いしている程度ですが、本格的に学習させてみたいです。それがもし本当に良いものになるのであれば、使うべきというか、使わざるを得なくなるでしょう。ただ、AIがどの程度やれるのか、まだわからないですね。「いかにも何々風」というのがいい加減なことも多くて。よく聞くのは、「これは昔の作家の引用だ」とChatGPTが言うので調べてみたら嘘だった、とか。だから、まだ怖いことは怖いですよ。でも原則として、それが本当に良いものであれば、それは受け容れていかざるを得ないし、やっていきたいと思います。人間が下訳をやるよりも出来がいいのなら、使ってみるのもおもしろそうです。

4月に『いっしょに翻訳してみない?』という著書が出る予定なんです。本書のために中学校に6回行って授業をしました。最初の授業でChatGPTやDeepLなどAIで訳したものを見せて、感想を聞いて一緒に考えていきました。半年前と今とでAIの翻訳のレベルも違っているので、侮れないですね。今の時点では、少なくとも無料のChatGPTに下訳をやらせてもまだまだ話にならないですが。自分の訳書を全部学習させて、いかにも自分っぽいものができるなら、やってみたいけれども、願望としては、まだまだダメであってもらいたいですね。

寺田:越前さんご自身が思う「越前敏弥風の翻訳」というのは、どのようなものなのでしょう?

越前:逆に、自分で言語化できないところをどうAIが考えてくるのかに興味はありますね。たとえば、センテンスの切れ目を大事にするというところは、他の翻訳家よりもあると思います。できるだけ原文通りにするんです。最近『老人と海』を新訳で出したんですが、過去の訳文と私の訳文を比較させて、その特徴を分析させてみるのもいいかと。その特徴をChatGPTが認識して、新しいものを翻訳する時に活用できるのなら、ぜひ見てみたいです。ボキャブラリーの使い方もあると思いますし。「越前敏弥はこの単語をこう訳す傾向があるな」とか。

寺田:文芸翻訳は長年勉強して仕事を手がけられるようになるものかと思います。これまでは時間的猶予がありましたが、今のようにAIが進化して翻訳をめぐる状況が変化していく中、今から文芸翻訳家を目指す方たちには、どれくらい時間が残されているのでしょうか。

越前:勉強するうえでAIを取り入れていいと思います。この間の芥川賞受賞作『東京都同情棟』で作家が一部にAIを取り入れたのと同じで、翻訳でも実際にまずやってみればいいと思うんです。それで時間の節約になると思うなら使えばいいですし。使ってみてダメだったら、どこがダメか客観的に分析して、勉強していくことをやるべきだと思います。私は大学で翻訳の授業をやっていますが、来年度の4月からの授業では、まずAIの翻訳を生徒に見せたうえで、批判したり改善点を探したりするところから授業をするつもりです。そういうトレーニングも今からは必要ではないかと思います。AIのダメなところを指摘するというか。もし指摘するところがないくらいAIのレベルが上がってきたら、仕事自体が変わります。そこまでいったら小説もAIが書くようになるでしょうし、何のために文学があるのかという話になってきますが。結論は出せませんね。自分自身、あと10年くらいなら逃げ切れるかと思っていたら、意外と逃げ切れないかもしれないという危機感が今はあります。やれることはやるというか、取り入れられるものは取り入れて、あとは成り行きというか、運命を受け容れるしかないのでしょう。

寺田:海外でひとりで勉強しながら、持ち込みを続けている読者もいらっしゃいます。特に伝手があるわけではないけれど、文芸翻訳の道に進みたいとがんばっている、そんな方へのアドバイスをお願いいたします。

越前:コロナ禍になってからは、朝日カルチャーセンターの講座でも私の講座でも、海外からオンラインで受講している方は多くいるので、勉強する機会という点ではほぼ変わらなくなったと思います。あとは、自分の訳文を客観的に見てもらう機会をつくったほうがいいです。そのうえで、持ち込みについていえば、編集者に会う機会が少ないという点で不利なわけですが、海外にいるからこそ有利なところは何かを考えることです。英語以外の少数言語なら、現地の文学や文化を知っているという決定的な強みがあるわけですよね。日本にいてはわからないことがいっぱいあるわけで。その決定的な強みを売り込む材料にできるようにすることです。英語以外の言語だとその強みが比較的顕在化しやすいですが、英語でも、日本のエージェントや出版社は英米のトレンドのすべてを知っているわけではなく、ほんのごく一部しか見ていないわけですから、ヒントになることをつかむ機会は海外にいる方のほうが絶対に多くあるので、それを活用していくことだと思います。

先日、小竹由美子さんと対談をする機会がありましたが、アリス・マンローを訳したのも決して偶然でもなんでもないんですよ。凄まじい量を読んで、持ち込んで、片っ端からやっているんです。ほとんど返事がない出版社もいっぱいあった中で、受け容れてくれたところをきっかけに、色々な仕事の機会をつくっていったということがわかりました。やっぱり、すごい人はすごいですよ。

寺田:断られると落ち込んでしまう方が多いのですが、めげずに次に行くんですね。

越前:ひとつダメだったら次に行く、ということをやっています。『オリンピア』どころじゃないんですよ、小竹さんの話を聞いていると、本当に。『オリンピア』レベルのことは当たり前に起こっているというか。小竹さんだけでなく、スペイン語の宇野和美さんともときどき話をするんですが、同じようなことをいっぱいやっていらっしゃいます。断られたということもしょっちゅう伺いますから、まあ、当たり前なんですよね。当たり前っていうのもなんだけれども……。

寺田:「当たり前」の感覚が違うんですよね。

越前:そう、そう。金原瑞人さんなんかもそうですが、さりげなく「これは持ち込んだけどダメだった」なんていうことをいっぱい言っていますから。そういうことなんじゃないかと思います。

寺田:今、この連載の中で読者のみなさんのデビューをサポートする企画をやっているのですが、本当にメンタルの部分が大きくて。1社お断りがあると、そこから立ち直るのに時間がかかる方が多い印象があります。1社ダメだったら次に行けばいいと思うのですが、そこでの気持ちの切り替えに苦労されるようです。越前さんは『オリンピア』を大変な思いで刊行されましたが、今後もご自身でこうして持ち込みをしたいとお考えでしょうか。それとも、こんなに大変なことはもうたくさん、という感じでしょうか。

越前:ここまで待たされるのは嫌ですが(笑)、これまで持ち込みがうまくいかなかったのが、最近『ロンドン・アイの謎』がうまくいって、『オリンピア』もうまくいって、夏にも持ち込み企画のノンフィクションが出る、という具合に持ち込みに勢いがついてきたところなので。まだまだ紹介したい作品はありますから、残された時間や忙しさを考えて、現実的なものから処理していくことになるでしょう。たとえばエラリー・クイーンの作品をずっとやっているので、「エラリー・クイーンのこれを出したい」というのは、他の何もないところからやるよりも現実的なわけです。『ロンドン・アイの謎』『オリンピア』も、まったく新しい作家ではないという点で、それなりの手掛かりはあったわけですよね。夏に刊行される持ち込み企画もそうですが、多少とも現実味があるところから攻めていくということかと思っています。「ここの出版社じゃなきゃダメ」と思っているわけではなくて、「ここがダメだったら次の機会に」という感じです。次の機会がいつ来るかはわからないけれど、何かの流れの中で突然、「ここと組み合わせたらうまくいくんじゃないか」ということがあったりするんですよね。『オリンピア』も結局、ものすごく長い時間の流れの中だったわけですが、『灰の庭』をものすごく好きな編集者と会っていなければ、たぶん出せなかったでしょうからね。そういう運と縁だと思います。運というのは、色々と動いているから道が拓けて運もついてくるんだと思いますし、そういうことは今後も続けていきたいです。

寺田:『オリンピア』や今後の刊行作品については、越前さんのnoteの記事やYouTubeの動画なども、読者のみなさんにぜひご覧いただきたいと思います。最後に、読者へのメッセージをお願いします。

越前:『オリンピア』については、とにかくすばらしい作品だからぜひ読んでください。持ち込みについては、100パーセントなせばなるとは思わないですが、数打ちゃ当たることもあるのは事実だと思います。ひとつでめげないでやっていって、やりたいこと10個のうち3個ぐらい実現したら素晴らしいと思うんですね。そういう気持ちでやるといいんじゃないかと思います。マッチングを考えていかなきゃということももちろんあるんですが、運というのは半分は自分で引き寄せるものだとは思うので。それにはやはり、たくさん読んで、自分が何をやりたいか、何を紹介したいかをはっきりさせるということだと思います。それは自分自身に対しても、「そうならなければいけない」と自分を律するうえでも、そう思っています。

寺田:読者にもとても励みになるのではと思います。本日は本当にありがとうございました。

お話を伺って、翻訳に関してだけでなく、仕事をするうえでの心構えや人としてのあり方についても、多くの学びをいただきました。「読者を育てる」という言葉を何気なく使っていましたが、そういう言葉遣いの一つひとつに自分の傲慢さが反映されていたことに気づき、反省しきりです……。インタビューというより、贅沢な個人授業を受けさせていただいたようでした。記事を通して、読者のみなさんにお福分けできますように。お忙しい中お時間をつくってくださった越前さん、本当にありがとうございました!

※越前敏弥さんの講座やメディア掲載などの最新情報はnoteをご参照ください。

 

※この連載を書籍化した『翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと』が発売中です。電子書籍でもお求めいただけますので、あわせてご活用くださいね。

※出版翻訳に関する個別のご相談はコンサルティングで対応しています。

 

Written by

記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

END