INTERPRETATION

第402回 どうする?集中力

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「映画鑑賞も仕事のうち」ととらえ、時々映画館に足を運んでいます。洋画の場合、オリジナルの英語音声と字幕を観ながら「なるほど、この英語はこう訳すのか!」と学ばされることも多いですね。

ただ、映画館における唯一のネックは「予告編」です。本編が始まる前に何本か流れますよね。ほのぼの作品の予告であれば構いません。私にとって苦手なのは「血がたくさん出てくるもの」や「銃声が聞こえる作品」なのです。そうした画面が流れ始めると、目を閉じてしまいます。それでも耳からは内容がおどろおどろしい(?)音楽と共に入ってきますので、逃れることができません。

かと思いきや、なぜか放送通訳現場では戦場のシーンであれ、手術中の光景が繰り広げられる医療レポートであれ、直視できます。映画はフィクションの世界なのに全くダメ。一方、リアルな世界のそうした光景は大丈夫なのです。自分でもなぜなのかわかりません。おそらく放送通訳という緊迫した中で自分のアドレナリンが上がっているからなのでしょうね。

ちなみに病院での採血も問題ありません。むしろ採血の一連のプロセス、すなわちアルコールで拭いてバンドを上腕部に付けて、握りこぶしをして「はい、チクッとしますよ~」も大丈夫です。しげしげと実は眺める方で、「へえ、ずいぶんと血管が浮き上がるのねえ」と内心思ってしまいます。さらに仕事柄、つい好奇心で看護師さんにあれこれ質問してしまいます。「この一本で何CC採れるんですか?」「アルコール消毒がダメな方っていらっしゃるのですか?」という感じです。そうしたたわいもないおしゃべりをしているとあっという間に採血が終わります。あ、読者の中には採血が苦手な方もおられることでしょう。スミマセン、延々とこの話で・・・。

このような具合で、「自分は時と場合によっては血に強い」と思い込んでいたのです。ところが「動揺する出来事」に先日見舞われました。

放送通訳の早朝シフトに入ったときのこと。その日は睡眠もバッチリ。当日のトップニュースもネットで押さえてから現地入りしました。体調は良好。今日も頑張ろうと思っていた矢先のことでした。

CNNでは二人の通訳者が30分交替でスタジオに入ります。私はその日、後半30分の担当でした。自分の番になり、さあ、ブースに入ろうと資料や電子辞書、水などを持って歩き始めた時のこと。右手親指爪の付け根を少し触っただけなのに、出血し始めたのです。甘皮の部分です。

しかも血は見る見るあふれ出し、止まる気配がありません。自分の本番まであと1分もない中、机に戻ってカバンを開けてポーチからティッシュを取り出す・・・などという余裕もありませんでした。

幸い、ブース手前のディレクターさんの席にティッシュボックスを発見!「すみません、1枚いただきます!」と有無を言わさず(?)引っ張り出し、付け根を押さえてブースに入り着席しました。

しばらく押さえていれば止まるはずと思いきや、まだまだ続きます。とりあえず押さえながら同時通訳を始めました。ところが頭の片隅では「うーん、いつもならもっと簡単に止血できるのに、なぜ?」「甘皮がうんと薄かったから?それとも無意識のうちにささくれを引っ張ってしまったのかしら?」など、「原因探し状態」になってしまったのです。

普段であれば何ともないはずです。ところが「トランプ大統領はG20に向けてワシントンを出発し・・・」などと同時通訳しつつ、頭の中ではあーでもないこーでもないと考えている自分がいました。「ただでさえスタミナを要する仕事なのに、なぜどうでも良いことを考えているんだか、自分・・・」とツッコミを入れつつ・・・。

幸い、15分ぐらいして血は止まりました。けれどもいつも以上に集中力を要することとなった放送通訳現場でしたね。何はともあれ、滅多にない経験となりました。

(2019年7月2日)

【今週の一冊】

「ふしぎな県境 歩ける、またげる、愉しめる」西村まさゆき著、中公新書、2018年

指導している大学の図書館は、入館してすぐのところに新刊コーナーがあります。それぞれの書棚に配架される前に一旦ここに展示されるのですね。大学の図書館というだけあって並ぶのは新書から専門書、洋書など様々です。さらにこのコーナーの隣には図書館が企画する期間展示もあります。現在の特集は「新書」。司書さんや学生スタッフたちが選りすぐりの新書を紹介しています。

そのような中、偶然手にしたのが本書です。もともと地図や地理に関することが私は好きです。さらに「西村まさゆき」さんというお名前に見覚えが。検索したところ、第375回の「ひよこたちへ」でご紹介していたことを思い出しました。
https://www.hicareer.jp/inter/hiyoko/14210.html

「県境」ということば。意味はもちろん誰にとってもおなじみでしょう。けれども実際に「今日、私は県境を歩いたよ」「市の境界線に立った!」と意識的に行動することは少ないはずです。実際のコンクリートや川の上に境界線は描かれていませんので、知る由もないですよね。

一方、西村氏が本書の中でも紹介する通り、最近のカーナビは県を越えるとアナウンスしてくれる機能があります。西村氏自身は免許証を持たないのですが、そのカーナビ・アナウンスを聞きたいがため、知り合いに運転してもらい、東京都と神奈川県の複雑な県境を運転してもらったそうです。県境への熱烈な愛を感じます。その章のタイトルは「カーナビに県境案内をなんどもさせたかった」(p151)でした。

どのページも楽しい話題が満載なのですが、中でも一番私にとって有益だったのは、川の都県境に関してでした。以前から私は「東京と埼玉は荒川が境目となっている」と思っていました。ところが地図を見ると、東京都側まで埼玉県が延びていたり、あるいはその逆だったりということが描かれているのです。その答えがようやく本書でわかりました。理由は「河川の改修工事」。度重なる工事で川の流れが変わったとしても、境界線はそのままなのです。

本書はカラー写真もたくさんあり、境界線をどのようにして見分けるかのヒントも出ています。本書を片手にウォーキングするのも楽しいことでしょう。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END